対談「受容的交流が表すもの」を受けて
鼎談「課題を媒介とした交流」~心のケアとしての受容的交流療法~
嬉泉新聞第89号にて巻頭言「課題を媒介とした交流」をご寄稿いただきました、日本抱っこ法協会名誉会長 阿部秀雄先生と、社会福祉法人嬉泉理事長 石井啓、同療育援助統括理事 沼倉実との鼎談の模様をお届けいたします。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-01-
石井 渡辺慶一郎先生にはいつも色々な嬉泉の事業にご協力いただいていると同時に、以前は評議員を務めていただきまして、現在はその評議員を選任する選任委員をお願いしています。 そのような関わりの中でいつも感じるのは、本当に私たちの実践に対する温かい眼差しと言いますか、嬉泉新聞第86号に寄稿してくださった原稿を読ませていただいて、本当に力づけられる言葉をいただいていると感じています。 現場の職員たちにとっても、私にとっても勇気づけられることなので、今日はそのことをもう少し掘り下げて、私たちが行っている受容的交流というものについて、好意的に見てくださっている渡辺先生から、ご理解いただいている内容を伺いたいと思い、このような対談という形式で機会を作らせていただきました。 原稿の中でも書いてらっしゃいますが、自閉症のような、コミュニケーション困難な方の成長可能性というものを信じているというというところを取り上げてくださっているわけなんですが、どういったところで受容的交流の良さ、みたいなものを感じていらっしゃるかというところを、まずお聞かせいただけますでしょうか? 渡辺 ありがとうございます。僕は石井哲夫先生と直接お会いしたことは実はそんなにないんです。だから逆に印象的だったのかもしれないのですが、あるシンポジウムで、何人かの研究者の方が話していて、石井哲夫先生が司会をやられていたんです。 そのときの聴衆のひとりが野次といいますか、大きな声でワーッと話し始めたんです。それで皆「困った、どうしよう」という感じで顔を見合わせるような状況だったのですが、石井先生は「どうしたんだい?」みたいな感じで、落ち着いて対応されていたのです。 そのおかげで、険悪な雰囲気にならずに、なんともうまく収まったのです。むしろその方も少し主張出来てトーンが柔らかくなったのです。 もし自分が司会で、そのような批判的な発言を受けたら、とても話を聞いたりとか、良いメッセージをその場で発するというようなことはできなかったなと思います。それで、「現場力というか臨床の力が本当に凄いのだな」と改めて思ったんです。 また、精神科専門誌に投稿された論文で、成人発達障害の方のケースで石井先生がサイコドラマを行ったエピソードに触れたことがあります。非常にグッとくる内容で、硬い自閉スペクトラム症の方ではあるけれど、お互いを思いやることが出来て相互の会話が成立したというものでした。 70~80年代に症例報告という形で残っているものも拝読すると、その方々の社会性やコミュニケーション能力の成長可能性というか、実際に成長・成熟している様子が読み取れるのです。 日々、発達障害の子どもや成人の療育支援を行っている方たちにとっては、そのような成長を感じることは日常的なことなのかもしれないのですが、私たち精神科医にとっては、診察室で短時間しか会わないですから「今,まさに成長したな」という感じはあまり無いのです。それゆえに私が「受容的交流ってすごいな」と憧れのような状態になっているのかもしれません。 ただ,それにしても、困難を抱える領域の成長が実際に起こっていて、そういうことを仕掛ける人がいるんだと思ったら、自分にとっても当事者とのかかわりにおいて、まだ出来ることや、やるべきことがあるなと感じるのです。 それで興味を持って調べていく中で、インターネットで世界自閉症啓発デーのシンポジウムで石井哲夫先生が話している動画がありまして。その中で「適切に受けとめて理解し、その上で適切にかかわる」ということを言われておりました。ああ、これが受容的交流のことなのかなと感じたのです。 「理解」というのは知的な理解であって、一般的に言われている特性をこの人も持っているのだという了解であり、「受け止め」というのは多分情緒的なもので「大変だったんだね、苦しかったんだね」という共感かと考えました。 こうした理解と共感を前提として、適切に働きかけることが大切なのだと感じています。現場の人にとっては多分、珍しくもない、いわば普通のことなのかもしれないですが、だからこそ大事なのだとも言えるかと思います。 受容的交流療法の流れの一方で、SST(ソーシャルスキルトレーニング)や認知行動療法、応用行動分析などの行動面から変えてゆく手法が開発されてきました。 行動は取り扱い易いので短期的に変えることもできる。例えば喧嘩をしてしまう子に、それをしないようにする行動上の介入テクニックは色々あるでしょう。 でも、それ(喧嘩しないこと)ができるようになってよかったね、じゃあ次は何しましょうか?(今度は暴言を止めさせましょう等)というパッチワークのような繰り返しでいいのかなと思うのです。 多分、人と関わる上での基本的な領域が、成長・成熟するのが本質であって、そこを取り扱わないことには、逆に行動面の介入テクニックも成り立たないと思うんです。 しかし、これこそが大事なんだと真正面から言うのは勇気がいることです。簡単に変化する領域でもないですし。(受容的交流療法では、これこそが大切なのだと主張していると思いますので)そうしたところに私は惚れ込んでいるのです。 自分の子どもの幼稚園を探すときに「英会話やってます」「スイミングやってます」とか、そういうおまけみたいなものを大きく謳っている幼稚園がいくつもあったのですが、もっと子どもと向き合うこと、子どもだけでなく親も成長しなければならないこと、手間はかかるし面倒くさいところはあるけれど、それが大事なのだと主張しているところを探しました。 私の地元がここ(子どもの生活研究所)からは遠いので、大切なことに向き合う(受容的交流療法的な)ところを探して入園させました。ちょっと話がそれてしまったのですが、そんな風に惚れ込んでいるということなのです。 石井 ありがとうございます。今のお話の中にありました「適切に理解して、適切に受け止め、適切にかかわる」というのは、確かに受容的交流の、ある意味神髄と言えると思います。言葉にすると本当に平易で、当たり前といえば当たり前に聞こえるような言葉なんですけど。 やはり自閉症の方を我々支援者が理解するのが難しかったり、当事者ご本人も人とかかわるのが苦手だったり、そういう方に対して、きちんとそれを行うというのは本当に大変だということを渡辺先生はよくお分かりになっているからこそ、おっしゃっていただいているのだと思います。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-02-
石井 我々が自分たちの実践を語ろうとするときに、まさにそのことがあまりにも当たり前に聞こえるがゆえに、伝えるのが難しいと言いますか。そこには石井哲夫もかなり力を注いでいましたが、「理解する、受け止める、働きかけかかわる」というところを言葉にして説明するというより、自ら実践してみせていたのだと思います。 現場の中でも実際に、職員同士の関係の中で、先輩とか上位者がやっていることを後輩職員が見て、それを自分なりに真似るところから始めたり、あるいは違うアプローチをしたりと、試行錯誤していくものです。 それが本当に利用者に届いたのかどうか、ということを確かめるのも、利用者本人の変化はもちろん、先輩や上位者との話の中で、「理解するってこういうことか」「受け止めるってこういうことか」と、より深いところでつかんでいくことの積み重ねで、ようやく職員自身の手応えになってくるものなのだと思うのです。 ただ、それを新人職員に伝えていくのは、本当に時間も手間もかかりますし、実際にそれをものにしてくれるかは、皆が皆というわけにはいかないところもあります。 先生のお話の中にもありましたが、ASD(自閉スペクトラム症)支援というか、強度行動障害支援者養成研修を行う中で、応用行動分析とか構造化といったものが取り入れられ、それらがスタンダードな手法とされてきています。 決してそれを否定するものではないのですが、それだけでは足りないんじゃないか、むしろ、もっと土台になるものが必要なんじゃないか、ということを言おうとするときに、なかなか適切な言葉にできないのが非常にもどかしいと言いますか。 そういった言葉で伝えていくためにどうすればよいか、何か先生にお知恵を貸していただければと思うのですが。 渡辺 例えば、支援者への助言として、お互いの信頼関係が大切だとか、その当事者のことを理解して、受け止めること、とか言うと「もう信頼関係は出来てます」というように返されてしまうことが多いのです。 しかし、石井理事長がおっしゃった通り「あ、そうだったんだ」と感じられる領域まで踏み込んだりとか、利用者とのかかわりの中で「あ、そういうことだったのか」と理解が深まったりすることがあると思うのです。 それまで「できていた」と思っていても、まだまだ不十分だった(まだ出来ることがあるのだ)ということが、そこで初めて分かる。それを言葉にして伝えるのは、なかなか難しいことだと思います。 受容的交流では、いわゆるマニュアルのようなものは作ってないですよね。例えばチェック項目があって、これができたら上級者とか、今風のプロトコルになっていないというのはつまり、言葉にすると何かが損なわれるから、ということもあるのかなとも思います。 言葉にして物事を区切って「ここからここまで」と表現してしまえば初心者にもわかりやすいのでしょうが、それでは味気ないもの(本質が抜け落ちたもの)になってしまう。 だから言葉のマニュアルにはなっていないし、むしろしなくて良かったのではないかと思うこともあるのです。実践の中で人から人へ直接伝えていくしかないのではないかと、私は今のところ思っています。 しかし一方で、言葉にして伝えていく努力は必要で、(受容的交流をベースとした)こういった切り口もあります、こういう解釈もあります、ということを発信していくのだと思いますが、それは「人間とはなんぞや」みたいな問いと同じで、100%のゴールはないのかもしれません。 嬉泉が大事にしていることが、必ずしも家族や関係者が求めているものと一致するとは限らない場合もあるのではないでしょうか。 例えば発達障害のお子さんのケースで、言葉ができて、着席していられる、小学校も普通級に行けるようにして欲しい、とにかく行儀よくできるようにして欲しいといった要望は(それ自体は自然な求めだとは思いますが)、受容的交流療法が目指すものとはちょっとズレてしまう。 だから、そういったニーズに対して、自分たちがどういう人間形成を目指しているのか、ご家族や関係者に理解していただけるようすり合わせていくのは大事だと思います。 そして、受容的交流がひとつのキーワードになって、それが軸としてあって、支援者が「これは大事だよね」ということを認識すると、支援者自身が普段の生活もちょっと見直すというか、仕事の場だけではなく、自分の在り方というか。本当に自分が主体的か、ほかの人を理解して受け止めているか、そういうことを振り返らざるを得なくなると思います。 石井哲夫先生は職員の研修にも力を入れていらっしゃったと思うのですが、サイコドラマは職員向けにもやっておられましたよね。支援者が主体的でないと、利用者も主体的になれない。そうなると仕事中に全て完結できるものではなくて。なかなか今風にはいかず、勤務時間外に集まって話し合うとか、そういうことが必要だったのではないかなと。 何というか、思想というところまで踏み込むと批判も出てくるのかもしれないのですが、人と関わることは、やはりこちらも片手間ではできないというか。しかも、小さい子どもとか弱い立場の人が相手だから、余計にこちらが力を入れなければいけないことなので、やはり簡単には到達できない領域というのが真実かと思います。 ですから受容的交流を語るのもやはり簡単にはいかないのではないかと。勤務時間で区切れないのは、今の人には合わないのかもしれないのですが。 石井 私もお話を伺っていく中で、自分もそういう風に思っているところがありまして。 私自身はなかなか石井哲夫のようにはできないですが、ただ思い返してみると、石井哲夫のやっていたことは、もちろん一義的に利用者への支援なのですが、そこにやはり自分自身の生き方みたいなものが現れていたというか。 もう仕事だ、プライベートだというのを超えて、自分自身の暮らしの中に自閉症の人たちとの付き合いがある、みたいなイメージでしたね。そこにはもちろん、職員の人たちも入っていて。だから、先生がおっしゃるように仕事だ、プライベートだ、っていう区切りというより、本当に「人としてこう付き合っていく」という風で。 仕事が終わったらオフに切り替わって、ということでは全くなくて、生き方に入り込んでいるというか。石井哲夫は、そういうことでしかできなかったし、そういうことをむしろやりたかったのだろうなと、今更ながら思いますね。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-03-
石井 私自身がそこまでできるか、と言うと、なかなか難しいところもあるんですが、やはりオンオフでスイッチが切り替わるようにという風には、自分もなかなかできないなあと。 若いころは割と仕事は仕事、自分自身の暮らしは暮らし、でやれるといいなと思っていた時期もあるんですけど。でも結局、仕事から帰っても仕事のことは考えるし、仕事で受けた色々な影響っていうのは残っているし。 先生もおっしゃっていましたが、自分自身の生き方?というと大げさですが、身の処し方みたいなところは、本当に問われているなと。 自分が本当に思っているわけではないことを相手に求めることは不自然なことで、真実味や説得力がないから伝わらないし、当然相手も変わっていかない。だから、そこで自分自身を変えていくことが求められるというか、必要なんだろうなと思います。 でも、受容的交流を実践していくためにはそういうことが必要だって、表立って言ったら、多分相当数の職員は「そんなのできないよ」ってなるだろうと。 結果的にはそれに近いような生き方になっている人は少なからずいると思うのですが、それを人に言われて、その方向に進んでいこうとする人はなかなかいないのではないかと。 実際に、利用者と向き合いながら、自然に自分が影響されるというか、必要に駆られて変わっていかざるを得ない、みたいなことを経験していくと、自然と変わっていくというか、掴んでいくものなのだと思います。 渡辺 いや本当に、その通りだと思います。私も自分の職場では休みの日に仕事をする(させる)のはいけないことなんで、言えないんですけど。 でも、石井理事長もどこかで書かれていることで、仕事だけ切り出して人を雇うのではなく、育てていくこと込みで来てもらうんだ、というふうに説明されていたと思います。 仕事だけ切り出してやってもらって完結する領域もあるとは思いますが、育つとか、成長するというと、仕事以外の、業務の成績とかではカウントしようがない領域だと思うのです。 例えば、医療の領域だと、国の方針で診療報酬がこのように変わったから、病院の方針も報酬が上がった領域に力を入れて、儲からない仕事は切ります、とか。そういうやり方もあるとは思うのですが、それだけじゃなくて、人格というと言いすぎなんですけど、人としての矜持というか。 トップの方がそれを大事だと思っている、ということが大事だと思います。 石井 ありがとうございます。そうですね、突き詰めていくと、なんか今の世の流れとはどうしても合わないというか、ある意味反するところが出てきてしまうところがどうしてもあって、それを大っぴらに公言するのは憚られるところもあってモヤモヤするのですが。 改めて先生とお話していて感じたのは、変えてゆくといっても変わるものでもないというか、さっきのマニュアルの話もそうですが、言い切ってしまうとそこで変質してしまうというか、本質を外してしまうみたいなところがあったり、あるいはその、やり方というか、大事なところを変えて、今風の時流に合うような形にしてしまうと失われるものっていうのが、大きいんだろうなと思います。 ある意味これで良かったんだ、ということをおっしゃっていただけたのは嬉しい反面、「さて、どうしよう」というところも残ってしまうのですが。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-04-
石井 幹部職員の間では今先生とお話しているようなことを話したりもします。でもそれは広がっていきにくい考え方、やり方かもしれない。それは外向けにもそうだし、内部に対しても、世代で区切りたくはないのですが、新しく職員になってくれた人たちに、なかなか伝えようとしても伝えにくいというか。 そもそも仕事とかその暮らしの中での身の処し方っていうのは、本当に違ってきているというギャップはすごく感じるところもあるので、やはり課題は残るなと。 それでも、ある意味、先生の立場のようなお立場の方からそうおっしゃっていただけたというのは「あ、やっぱりそうなんだ」という納得感はありますし、じゃあそれを前提としてどうしていこうというふうな思い切りもできそうだな、と思ったのは、やはり内部の人間だけで言っていても、しょせん身内の遠吠えみたいな感じになっちゃうところもあるので。 そういう意味では、違う立場から言っていただけるのはすごく意味があって、ありがたいことだと思います。ありがとうございます。 渡辺 人とかかわることが大事なんだよ、とか言い始めると「何言ってんの?そんなの当たり前でしょう?具体的にどうするの?」って批判されますね。 大学の現場では合理的配慮が一時盛り上がって、今度は障害者差別解消法が改正されて、私立大学も義務化されるのでまたトピックとして盛り上がってます。 障害や病気の人への配慮を法律で決めるっていうパラダイムシフトがあったわけで、それまでは親切心でお手伝いしましょう、ということだったのが「法律違反になるからやらなきゃ」ということになって、そのためには色々な委員会を作りなさいとか綱領とかルールを作りなさいとか、大学の中でそういう流れになっているわけです。 そうすると、その制度を実現するために「様々な支援室が」できたりして、その枠組みができることで、障害者や病気がある人はその支援室にまかせよう、みたいな。気持ちの上で分断というか、離れて行ってしまう、それは自分のテリトリーの問題じゃない、というようなことが起こりうるのではないかと心配しています。 だから、基本的なことだけど「適切に理解して、受け止めて、いいタイミングで適切に働きかける」って、本当にシンプルまことだけど、繰り返し発言してもいいのではないかと思います。 石井 今の自閉症とか強度行動障害のある人の支援はわかりやすいところに流れようとしている気がしています。 そのことに限ったことではないのですが、石井哲夫がかつて批判された言葉の中に「(石井の療育手法は)名人芸」というのがありました。石井だからできるけど、他の人にはできないじゃないかと。そういう批判がすごくありました。 渡辺 僕は反対に「名人芸」上等だと思うんですよね。精神科の領域でも神田橋條治先生とか名人がおられまして、異なる漢方薬を左右の手に出して、どちらが良いかわかるとか。そういうやり方は多分、ほかの人は殆ど真似ができないんですけど、そういう頂点があり得る、いろいろな可能性があるということを僕らが知るだけでも意味があると思います。 その名人を否定すると、もうDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)みたいな操作的判断基準で「眠れますか?食べてますか?気分はどうです?」と何項目以上チェックしたらうつ病、それで思考停止になってしまう。 誰でもできるから、評価者間の差を少なくする意味はあるのですが、難しいケースでなかなか治療が展開しない場合は手詰まりになってしまうんです。 だから名人芸はあった方が良いし、ほかの人にはできないから普及する価値は無いというのは、私は受け入れがたいですね。できなくても近づくことはできると思いますし。まあでも僕はこっち側の人間なんで、ちょっと遠吠え的な感じもありますけど。 石井 私も本当にそう思います。批判した人の立場はわかりませんけど、まあ想像するに、強度行動障害支援者養成研修なんかの作り方を見ていると、ある程度底上げをしていくというか、その研修を受けた人に応じて加算の根拠にするとか、そういった仕組みなので(誰でもできることが)必要なんだろうと。 でもその、汎化というところでは受容的交流はどうしても異端というか、傍流になってしまっているところもあって、ある意味それは致し方ないところもあると思うのですけど。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-05-
石井 確かに誰でもできるものではないっていう、先生がおっしゃるように名人芸が一方であって、そこに近づいていくことが、よりよい実践というものが持っている可能性もあるってことは私も本当にそう思っていますし、嬉泉が今やっていることだと思っているんですけど。 ただその、名人芸と奉ってもらわなくていいんですが、ある種の優位性みたいなものを認めてもらいたいっていう気持ちもあるし、そうじゃないと、やはり実際に現場の職員のモチベーションというか、「自分たちがやっていることって、本当にいいんだろうか」とか、そういうことが担保されない危険性があるなってちょっと思ってるんですよね。 そのあたりでもう少しなんとかならないか、汎化しなくてもいいけど、ある人にはそういうやり方が非常に有効な部分があると、それは誰もがやるわけではないけど、ある種の価値があるんだ、っていうところにはなりたい、という気持ちがあります。 渡辺 僕は土台って考えています。車の両輪に例えると、技術、テクニックというか、例えばタイムアウトとかクールダウンとか構造化といったものはあるけど、その一方で態度とか心構えも大事です。 当事者に全然興味がなくて、その与えられた時間だけ決まったことやります、みたいな冷めた気持ちでかかわるのと、何とかしなきゃ、なんとかなるはずだ、みたいな真剣な気持ちでかかわるのとでは、同じ技術を使っても、やはり結果は違ってくると思うんです。 でも、心構えの研修をします、なんていうと安っぽくなっちゃうからなかなか発信しにくいですよね。私は大学生の支援の集まりで、石井哲夫先生の著書にある「Nちゃん」の事例を話させてもらうことがあって、その際には受容的交流を精神療法という文脈で紹介しました。 自閉症の方に精神分析的あるいは精神療法的ににかかわるのは、本当に複雑な、深いところまで取り扱うことになると思うんですけど、多くの臨床家はそこまでは踏み込まないで、軽いガイダンスと少ない薬物療法を採用すると思います。 本人を混乱させにくい、本人との関係が崩れにくいから安全だという主張がありまして。精神療法は少数派とも言えるのですが、一方で京都大学のグループなどは精神療法の可能性を研究し、成果を出版したりしています。 私は(受容的交流を)精神科の言葉にちょっと組み替えて、精神療法的アプローチと説明しています。不安や抑うつのように表面に現れている症状ではなくて、成長可能性とか、心を取り扱う、ということを説明する苦肉の策なんです。 精神療法を本格的に研究されている方々にとっては、私の主張も表面的で甘いんだと批判があると想像しますが、一方で(前出の)合理的配慮についてどうする、と言っている人たちからすると「心を取り扱う」のはちょっと違和感があるというか、大事なんだけど、あまり触れてこない領域なのかと。 石井 なるほど、精神療法的アプローチ…確かに精神分析的な評価、それは批判的な文脈だったかもしれないですが、はあったと思います。実際、(石井哲夫に)フロイトからの影響も多分にあると思いますので。 でも、そういう意見も福祉の現場ではなかなか難しいと言いますか…、渡辺先生のような方に語っていただくと、非常に説得力があるんですけど、我々が言っても「何言ってるんだ?」という感じにはなりかねないかなと。 でも、確かに今おっしゃっていただいたことは一つの手がかりになりそうだと思いました。職員に向けてはそういう説明の仕方も有効かなと思ったので、それを先生から職員にレクチャーしていただく機会をいただけると大変ありがたく思いますので、それはまた改めてお願いさせていただきたいと思います。 渡辺 はい。 私は今、集団での認知行動療法(CBT)の臨床研究を企画して行っているのですが、外側に現れる表面的なことや、行動を変えて、とか、気持ちを変えて、というやり方は、それはそれで効果があって。 ダイレクトに心に働きかけても変わらないから、あえて外側から働きかけるという印象なんです。だから先ほど石井理事長もおっしゃったように、効果を否定するものではなくて、共存するということだと思うんですけど。 ただ、やはり認知行動療法をやっていて本当に思うのは、例えば不安になりやすい気持ちが、考え方を少し修正したり、広げたりすることで不安になりにくくなりました、というのはもちろんなんですが、例えば人前で発表ができるようになった、これからいろいろなことができるかもしれなくて嬉しい、という感じに感想を言ってくださる方もいらっしゃって。そういうふうに機能してほしいと思うのです。 例えばパニック発作という症状が抑制されてよかった、だけではなくて、本人のベースとなる気持ちとか考え方がぐっと変わって、その人の人生というとおこがましいですが、もう少し踏み込んだところまで浸透していくと、本当に良いなと思います。表面的な症状のコントロールだけでも、本当にそれが大変な人もいるので、それに意味がないと言っているわけではないのですが。 石井 本当にそうですね。私もさっき申し上げたように、そういうアプローチを否定するわけではなくて、むしろ有効な部分もあるし、それを使いこなせれば非常に強力な武器になるだろうと思います。 要するにその使いこなす側の支援者とか事業者の方が、本質的には何を大事にするのか?というところで。その当事者の気持ちの部分にかかわっていくとか、その人が楽になって幸せを感じられるとか、自発的になれるとかっていうところが大事で、そこに到達するためにはいろいろなアプローチの方法があるっていうことだと思うんですけど。
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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-06-
石井 思い返すと石井哲夫も、行動の変容とか表面的な気持ちが変わるだけのところで終わってしまうことになりがちだというようなことをよく言っていたような気がします。 構造化とかも否定しないし、いろんなアプローチがあって良いのですが、そこで終わってしまうのではなく、その人が主体性を持てるのか?というのが到達点であって、ややもするとそこに目が向かなくなる恐れがあるから土台が先だ、という言い方をしていましたね。 渡辺 そうなんです、本当に。子どもの精神科臨床で、「学校で着席できない」という困りごとに対していろいろ助言したり、薬を処方したりして着席できるようになったというケースがありました。 それで本人は褒められて嬉しいとか、教室に居場所ができて良かったというメリットはあるのですが、何というか…不満げな顔をして「この薬飲むと、なんかちょっと変な感じ(いつもの自分ではない)」と。表面の行動は抑えたけど、なんかちょっと違う。生き生きと、主体的に、のびのびと、というような時間の過ごし方が損なわれてしまっている。 でも、そういうことをちゃんと考えなければならないのは受容的交流のキーワードを出すまでもなく、本当はやらなければならないんですけど。 少し脱線しますが、私もサイコドラマの研修を何度か受けたことがありまして。それは石井哲夫先生の受容的交流の本にたびたび出てくるから興味を持ったんですが。 自分が主役になって、2回ほど小さいドラマをやらせてもらったんです。そうしたらもう、本当に強い影響があって。体を揺らされたら涙がこぼれるんじゃないかという感じになったんですね。 そのドラマの内容は自分の生い立ちとか、そういうのは全然関係なくて、日常の些細なことがテーマだったんですが。(サイコドラマの中で)うまい言葉で何かを言われたわけでもなく、ただこう、ダイレクトに突き刺さる感じがしたんです。 石井哲夫先生の著書の中でも、受容的交流の手法としてモレノのサイコドラマや、あと遊戯療法がベースになっていると書かれていたと思うのですが、著書の事例に出てくる人たちの体験とか、そこにかかわった支援者の人たちも、その時こう、ぐっと突き刺さるとまでは言いませんが、何かが変わったのだと思うんですよね。 石井 そうですね。具体的、直接的にその人の生活の中でかかわるというより、それらを一旦脇に置いて、サイコドラマの中の人物になるのですが、その時にどうしてもそこに投影されるものがあって。 直接的にその人の行動とか、関係性そのものに触れるのではないけれど、間接的になることで、逆に迫ってくるものがあるのではないかと思います。私自身がそこまで行った体験はないですが。 渡辺 分かっていただいてありがとうございます。サイコドラマの研修に行った、とか同僚に言うと「えー?」みたいな反応なんですよね…。 石井 今の話と直接つながるかわかりませんが、利用者の方に何かを伝えようとするときに直接、面と向かってだと、非常に構えられて緊張が強くなったり、拒否されてしまったりになりがちなこともあるのですが、その人が聞いている場で別の人、例えば家族の方とかに、一見その人のことじゃないことを話す中で、その人の行動の改めてもらいたいところなどに触れたりすると、すごくそのことと本人が感じてくれて、自分から改めてくれたという経験がありました。それに近い感じなのかと。 渡辺 ああ、今「オープンダイアログ」という概念を連想しました。私もちゃんと実践しているわけではないのですが。 例えば引きこもっている人がいて、支援者が複数、心理の先生とか担当医とかケースワーカーがやり取りすることがあるんですが、本人の前で支援者同士がミニカンファレンスみたいなことをその場で行うことがあるらしいです。 本来なら本人がいない場所で行うことですが、自分たちの解釈を目の前で話して聞かせるという。オープンに話をして、考えを共有するというか、無理やり決められたゴールを求めるのではなくて、いろいろな意見、解釈があり得てそれで良いのだというメッセージかと思っています。 直接本人と一対一で行う精神療法ではない手法が今、注目されているし、私自身も導入したいと考えています。 石井 そういう手法が実際にあるんですね。 渡辺 はい。それで今、私も同僚と複数で相談者に会うようにして、時々自分たちもそれをやってみているのですが、一対一でやるより良いですね。ダイレクトに正論をぶつけるんじゃなくて、いろんな解釈があるし、正解は唯一じゃない、だから僕たちも迷ってるんだとか、そいういうことをオープンにすると、かえって本人の気持ちも動きやすいかもしれないですね。 石井 ありがとうございます。ちょっと学んでみたいなと思いました。 渡辺 あとそうですね、受容的交流がなかなか評価されないという問題点というか、課題について。つまり、(SST、CBTなど)様々なテクニックは普及したけれど、それらは当事者の気持ちの面ではまだ成熟したものではなく、だからその後トラブルが起こっていると。 そういうことを例えば国や、東京都に発信していくという視点はあるのではないかと思います。評価してもらえない、ではなく、こういう問題点があるから(そこにアプローチできる受容的交流を)提案するという道はあるのではないでしょうか。すぐには動かないと思いますけど。 受容的交流の宣伝というより、多分、このやり方を突き詰めていくと、もっとできることはいっぱいあるはずだし。療育においてマニュアル通りにやっても全然変わらないんだけど、受容的交流の観点からすればそれは当然の状態だったりする、ということを、国や都に発信していくルートはあるのではないかなと思いました。 石井 ありがとうございます。そのあたりも言葉の選び方とかもありますけど、またご相談させていただきながらやりたいなと思いました。ありがとうございます。 渡辺 ありがとうございます。