鼎談「課題を媒介とした交流」~心のケアとしての受容的交流療法~
鼎談「課題を媒介とした交流」~心のケアとしての受容的交流療法~
嬉泉新聞第89号にて巻頭言「課題を媒介とした交流」をご寄稿いただきました、日本抱っこ法協会名誉会長 阿部秀雄先生と、社会福祉法人嬉泉理事長 石井啓、同療育援助統括理事 沼倉実との鼎談の模様をお届けいたします。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-01-
阿部秀雄(日本抱っこ法協会名誉会長・袖ケ浦非常勤講師) 石井啓(社会福祉法人嬉泉 理事長) 沼倉実(社会福祉法人嬉泉 療育援助統括理事) 嬉泉新聞第89号にて巻頭言「課題を媒介とした交流」をご寄稿いただきました、日本抱っこ法協会名誉会長 阿部秀雄先生と、社会福祉法人嬉泉理事長 石井啓、同療育援助統括理事 沼倉実との鼎談の模様をお届けいたします。 阿部先生は、長年に亘り、嬉泉福祉交流センター袖ケ浦にて「心のケア」研修の講師をしてくださっており、そのテキストは法人として製本し、職員全員に配布をしています。 この鼎談は、上記巻頭言に加え、2024年3月に行われた社会福祉法人嬉泉の全体職員研修にて、阿部先生にご講義いただきました「本当の自分、本当の気持ち」、さらには、同研修での職員による実践発表の内容も加味し、嬉泉が大切にする「受容的交流」の考えを、より一層深める機会となりました。 「鼎談のテーマ」について 石井 今回、阿部先生には嬉泉新聞の巻頭言『課題を媒介とした交流』を書いていただきまして、それに応える形というか、それを基に沼倉理事が文章を書いて、同じ第89号に載るんですけれども、今日は嬉泉新聞のその二つの記事を請けての鼎談ということで、お話をさせていただきたいと思います。 まず、阿部先生が巻頭言に書いてくださった『課題を媒介とした交流』というテーマなんですけれども、あえて阿部先生が今回巻頭言にそのテーマを選んでくださったということについて、まずそのお考えというか、どういったことでお選びになったかっていうことを教えていただきたいと思います。 阿部 石井哲夫先生のご本を読ませていただいて、やっぱり「課題を媒介とした交流」というのが受容的交流療法の肝なのだなということを、つくづく私自身納得しまして。石井先生は1971年にお書きになった『自閉症児がふえている』からそのことについては、揺るぎなく強調されてきたことじゃないかなと思います。 私は毎週、嬉泉福祉交流センター袖ケ浦に、職員研修のためにお伺いしているわけですけど、そこは意識的に取り組んでいかないと、どうしてもついつい埋没していってしまいがちな考え方じゃないかなと思って。 特に生活支援施設というのは、日常最低限のケアをしていくだけで精いっぱいというところがあって。だから、「日常のケアに加えて心のケアが大事ですよ」ということは言いにくい状況はあると思うんですけど、言いにくい状況があるからこそあえて言っていかなきゃならないことじゃないかなと。 日常の仕事が大変なのは分かるけれども、そこであえて「心のケア」にまで踏み込んで仕事をしていくと仕事そのものが面白くなるし、また楽にもなりますよということを伝えたいと思っているわけで。その「心のケア」の中で、やっぱり核心となるのが課題を仲立ちとした交流なんだよってことを、常々、毎週お伺いしている中では伝えてきたつもりです。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-02-
「心のケア」について 石井 今、「心のケア」というお話がありましたけど、「課題を媒介とした交流」と「心のケア」っていうのがなかなか結び付きにくいこともあるかなと思います。私どものような法人の中にいる人間にとっては割とその辺は、その課題の先にあるものというか、課題を通して相手に求めるものっていうのはその成長であったりとか、ある種の結果としての状態の変容であったりだからこそ「心のケア」だっていうふうに分かるんですけど、なかなかそこが新しく入った職員とか、外部の方なんかは、ストレートに結び付きにくいんじゃないかなというふうに思っていて。 阿部 「心のケア」という言葉は世の中でいろんな場でいろんな意味で使われているので、誤解されやすいと思うのです。ですから私は「心のケア」という言葉をこういう意味で使っていますお話しすることからでないと進まないかなと。そんなふうに誤解されやすい言葉を何で使い出したんだっていう、その辺の話もしなきゃならないんですけど。 もともと私は自分がやってきた理論的な根拠を「抱っこ法」という名称でやってきたので、ごく最近に至るまでずっと、「抱っこ法の阿部」っていうことで袖ケ浦に通ってきたところがあったわけですが、それはあまりいいことじゃないんじゃないかと思って。というのは、ある場での支援は、一つのまとまった理論に従ってやっていかなければならず、いろんな考え方がそこで寄せ集められると混乱の元になる気がして。 そんなことを思いながら、改めて「抱っこ法」と「受容的交流療法」とが、どう重なるんだということを考えてみたら、矛盾するところがないんです。自分がやってきたことは全て「受容的交流療法」によって説明されることだし、重点を置いて大事にするところの違いはあるわけですが、でもそういう違いも受容的交流療法の枠から外れるものじゃないと思って。 ですから、ここ数年はなるべく私は「抱っこ法」という言葉を使わないようにして、といっても私が「受容的交流療法をやります」というのもおこがましい話だと思って、その妥協というか、曖昧な表現として、「心のケア」を使ってきました。 もう一つ、矛盾するところはないと言いながらもここは違っていたなと思うところがあって。それは、石井哲夫先生は「自閉症の治療をするんだ」というところまで踏み込んで実践してこられたわけですが、私はそこまで言い出す勇気がちょっとなくて。 というのは、世の中の風潮がそういうことを言ってはいけないんじゃないか、という自己規制が働いて、ですから、自閉症のままで本来の素敵な姿を取り戻すんだと限定して実践してきたわけです。 そのことを一般的に言うと「心のケア」になるんじゃないかなと思ったのは、たまたま石井先生もメンタル・ケアという言葉を著書の中で使っていて、「障害児・者は皆、気持ちの問題を有しており、メンタル・ケアを求めている」とおっしゃっている。強度行動障害にしても、「自閉症だからパニックを起こすんじゃないんだ。自傷・他害が起きるわけじゃないんだ。それは二次的に本来の姿を見失っている状態なんだ」ということをおっしゃっているものですから。それならそれ(自閉症者が本来の姿を取り戻すために必要なメンタルケア)と同じ意味で「心のケア」という言葉を使ったらいいかなと思って、使い始めたようなところがあります。 それともう一つは、この方法論が健常な子どもで育て直しが必要とするようになった子どもの支援にも役立つ方法なものですから、それで(「療法」でなく)曖昧な「心のケア」という言葉を使い始めてきたんです。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-03-
「自閉症」について 石井 今のお話の中で強度行動障害という言葉が出てきましたけど、確かに二次的な障害というか、すごく混乱していたり、非常に不快な状態に置かれていたり、そういうところでの反応というか、その人が表している状態としての強度行動障害への対応ということで、それをなだめるとかあるいは収めるとか、そういうようなことでご本人が例えば自傷とか他害とか危険を伴うような行動をしていたりとか、あるいは不潔行為であったりとか、そういう人に迷惑なことを行っている状態っていうのを改善するというか、それがある種、緩和されたり消失したりっていうことが割とゴールのように捉えられているのかなというふうに思うんですけども。 でも「心のケア」とか受容的交流が生み出すものっていうのはそれだけではないというか、むしろその先にあるもので、それこそ先ほど先生がおっしゃった「課題を媒介にした交流」っていうところにつながるお話なのかなというふうに思っているんですけれども。 そのあたり、自閉症という障害をどう捉えるかっていう「自閉症観」みたいなものにもすごく関わっているというふうに思っていて、先生が研修のために書いてくださったテキストには自閉症の歴史というか、どのように考えられてきたかっていう経緯も書いてくださっています。 最初は心因説だったのが器質説になって、今は認知的な機能の障害みたいなことが割と中心になっているというか、それが主流の捉え方になっていて。だからある種のそういう器質的な問題だとすると、自閉症っていう障害自体はもう固定的であまり変容していかないんじゃないかっていうような。だから強度行動障害は別として、自閉症として示されていると思われているいろんな特性みたいなものっていうのは、もうそれ自体は動かしようがないから、それを周りも受け入れて、それに合わせて環境調整をすることが支援なんだ、みたいな、そういう流れになってきている気がするんです。 でも今「心のケア」っておっしゃっている課題的な交流っていうところは受容的交流の求めているところでもあるわけなんですけど、それはそういう固定的なものではないっていうところに依拠しているというふうに私は捉えているんですけれども、そのあたりを少しお話しいただけませんでしょうか。 阿部 心因説から器質説へという移り変わりがあったのが1960年代、70年代だと思うんですが、今おっしゃったように「病気じゃなくてそれは障害なんだから、自閉症のままであるがまま生きていけばいんだ」という、そのこと自体はとてもまっとうな考え方で、何も否定するものじゃないんです。 けれども、だからといって自閉症という状態が改善に向かわないのかというとまた話がちょっと別になる。別になるはずなんだけれども、「いや、器質説なんだからそれは無理なんだよ」という考え方が広まっていたと思うんです。 そういう流れであるのを承知の上であえて自閉症を治療するということに堂々と取り組んできたことで、石井哲夫先生には感服するというか脱帽する他はないんですが、ただそれが時代を経てごく最近になると、ちょっと世の中の考え方が変わってきている。そのことを私が直に思ったのは、『自閉症革命』(ハーバート/ワイントローブ著)という本が翻訳されて、それをたまたま手にしたことがきっかけなんですけれど。 その本を読むと、器質説という場合に、私がそれまで受け取っていたのは脳のどこかに病巣があって、それが自閉症の原因になるということだったんですけれども、どうも最近の研究からするとそういうことではないようです。脳の中の色々な問題があるかもしれないし、脳の外というか、全身的な色々な問題が関わっているかもしれないし、そういう(体内の)ネットワークの中でそれぞれの問題点が手に負えないというか、訳書では「負荷」という言葉が使われていたと思うんですが、その負荷がある限界を超えてしまうと自閉症という状態が生まれるんだという説明で、ああ、なるほどと思ったのが一つ。 ですから、いろんな問題の中の幾つかが改善すると自閉症という状態も改善するという実例がいろいろ報告されている中で、人との関わりを改善する社会性プログラムが今結構いろいろ出ているんだなということがその本を通して改めて分かったところで、世の中が石井哲夫先生にようやく追い付いてきたなっていう心強い思いがしたんです。 その社会性プログラムの一つにRDIというのがありまして。対人関係発達指導法(Relationship Development Intervention)を略してRDIです。 杉山登志郎先生という児童精神科のドクターがその翻訳を監修して、解説を書いています。自閉症や広汎性発達障害の中心は社会性の障害である。この社会性とはいわゆる社会生活という面の社会性じゃなくて、発達の一番基本にある「人との関わり」という意味での社会性です。「その克服のためには自閉症の認知障害を突破しなくてはならないが、その自閉症の認知障害を十分に考慮し、その認知障害によってもたらされた社会性の障害のレベルを見極め…」というあたりは従来の認知障害説をあからさまに否定しないように気を遣っての表現だと思うのですが、そう前置きした上で「社会性そのものを治療の対象としたプログラムは不思議なことにこれまでつくられてこなかった」と書いておられるんです。杉山先生、受容的交流療法をご存じないはずはないと思うのですが。 石井 対人関係、人間関係っていうことをずっと石井が言ってきて。そこに対するアプローチをしてきたわけですよね。それがまさに社会性の発達プログラムに他ならないという。 阿部 そうです。 沼倉 これは自閉症の本質的な部分より、生活の様子とか目に見えるところ、そういう二次的な表層を改善するということに結構注力している療法とか、学校教育とか、そういう現状があって、そういう中でやはり本質的な自閉症の方の健全な部分とか、そういうところが見逃されやすかったっていうことも関係しているんですかね。 阿部 ただ、人との関わりそのものを治療の対象としたプログラムが出てきていることは紛れもない事実なので、このように解説なさっていることはとても心強い、という思いでこの解説を読ませていただきました。というか、それ以上に時代がいよいよ石井哲夫先生に追い付いてきたな、と喜ばしい思いをしました。 石井 ただ、なかなかまだそれが(広まっていかない)。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-04-
「自閉症支援と子育ての社会的な状況」について 石井 先ほどの社会性の発達へのアプローチといいますか、そのあたりのところが今現在、自閉症支援って言われている考え方の中では、なかなか取り上げられていないように感じているところがあるんですけども。 特に強度行動障害のような状態にある人への支援っていうと、先ほどもお話ししたように、どうしてもその状態を落ち着かせるとか、そこで非常にドラスティックになってしまっているものを消失させるとか、そういうところが支援の到達点みたいなところからなかなか離れられないというか、むしろ落ち着かせて終わりみたいなっていうところっていうのがあって。 確かに、冒頭袖ケ浦の施設の話も少し出ましたけども、日常の生活の中で、本人がそういうちょっと通常でないような状態であれば、それをなだめるとか落ち着かせるっていうところがどうしても先に来て、これはもう致し方ないことだと思うんですけど。 そこでいったんなだめてしまうと満足してしまう、と言うと語弊があるのですが、そこからさらに社会性の発達支援っていうところに切り込んでいこうとすると、そのある種の安定を崩してしまうのではないかというような危惧は、多分現場の職員もあると思っていて。そこがやっぱりなかなか「社会性プログラム」っていうほうに行きにくい、うちであっても踏み出しにくいところなのかなっていうふうに思うんですけども。 そこを阿部先生がおいでいただいているセッションなんかでは、あえてそこから先のアプローチを教えてくださっているっていうふうに思うのですが、何かそのあたりでお感じになっていらっしゃることとかありますか。 阿部 かろうじて安定を保つというのは、石井先生の表現を借りるとそれは「砂上の楼閣」のようなもので、何かきっかけがあり、状況が変わったりすると、崩れてしまうもの、という戒めになると思うんです。 それは自分たち自身への戒めであるとともに、ショプラー流の支援の仕方、日本ではTEACCHとして紹介されているんですけど、TEACCHのプログラムへの批判でもあるわけですが。 ちょっと脱線しますけど、石井先生の著書を拝見していますとショプラーとか行動療法とかいろんな流派の考え方に対して結構厳しくっていうか、きちんと批判を展開していますね。それは否定して消し去ろうっていう意味合いは全然なくて、石井先生の基本的な考えは「色々な考えが登場して、それで切磋琢磨して深めていったらいいんだ」っていうお考えだったと思うので、あくまでもご自身の立場を明確にするっていう意味での批判だったと思います。 石井 そのとおりで、多分そのあたりの立場の表明といいますか、TEACCHであるとか行動療法への、あえての批判っていうところがあったと思うんです。けれど、今むしろTEACCHとか行動療法のある種の発展形態であるABA(応用行動分析)とかが、いわゆる自閉症支援のスタンダードのような言われ方をされてきているところがあって。 もちろん私自身もそれを否定する立場ではないんですけども、ただやはりそれだけだとそれこそ「社会性プログラム」というところには至らないだろうなと思うので、その辺をもう少し言っていきたいというか、嬉泉としてはそこがある種の依って立つところというか、嬉泉が目指している自閉症の支援の一つの方向性だっていうところを打ち出していきたいっていうふうに思っているんですが、そこがうまくかみ合わないというか。 そのあたりで沼倉さん、何か感じないですか。 沼倉 マニュアルがあって誰でもこうすればできる支援っていうのが、やはりもてはやされている状況にあるというのを感じます。 ただ、子育ての社会的な状況とか、そういう流れでやはり「人が子どもを育てる」とか「人が人になる」とか、そういうような意味合いが、支援する側にも薄れてきていて、そういった面でなかなかそこの本質的な部分に目が行かなくなっている状況っていうのがあるのではないかというふうに感じるんですけども。 阿部先生、その辺の今の子育てとか親子関係とかっていうところで関わっていらして、何か感じられるものは? 阿部 私は今、沼倉さんがおっしゃった「子育ての社会的状況」っていうのがとても気になっていて。 今まで自閉症の原因が心因か器質かっていうことでもっぱら論じられてきたのが、両方重なる部分もとても多いし、その重なる心因という部分が、個々の親の愛情とか育て方とかいう問題じゃなくて、それぞれの親が知らず知らずのうちに巻き込まれている子育ての社会的な状況、「子どもはこう育てればいいんだ」という社会的な風潮があって、そこに巻き込まれているところも多分にあるのではないかということを痛感しています。 ですから、自閉症の子どもも健常な子どもも含めて、広く育て直しを必要とする親子を相手に実践してきました。そういう(社会的な)風潮は、振り返るとここ30年以上も経っている話で、そうすると沼倉さんがおっしゃったように支援に携わる若い職員自体がそういう風潮の中で生まれ育っているってことは多分にあると思います。 ですから支援の出発点として、支援者自身が自分の生い立ちを振り返るような作業も併せて行いながら支援をしていくことが大切な世の中になっているかなと痛感しています。 (袖ケ浦の研修では)ここで暮らしている利用者の方と、担当している支援員の方と一緒に来ていただいて、個別セッションの時間を持たせていただいているのですが、そこで支援員自身の生い立ちをちょっと振りかえってみては、という誘いも、ときにはします。そんな話が目の前の支援の関わりにどうつながるかっていうふうに話が持っていけたらと思って。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-05-
「袖ケ浦での職員研修」について 阿部 やっぱり肝となるのは、子育ての場で言うと、子どもに向かって「そうしたいんだよね、でもね、こうすることが大事なんだよ」と言う、「でもね」と切り返す子育てが大事で、これは受容的交流の考え方で言うと「自閉的な生き方をせざるを得ないんだよね、でもね、こんなふうに人と関わったら楽しい暮らしが待っているんだよ」という切り返しになっていくわけで。 個別セッションの場では、その上で利用者と担当の職員との関わりの中で「こんなことから始めることが可能じゃないか」ということを提案して試みて頂きます。(先日の全体研修の例で言うと)その人なりに無難に日々を過ごしていくような術を見つけて、そういう意味では安定している暮らしをしている方でしたが、「でもね、こういう暮らし方もあるんだよ」ということを話して「ちょっと試してみない?」っていうふうに誘いました。 何をしたかと言うと、まずはその人に触れることから始めて、肩に触れ、腕に触れ、手に触れました。触れることさえも避けるようになっている方なので、誘うと避けられますから、「ああ、嫌なんだね」と受け止めた上で、「でもやっぱり寂しいな」とまた誘って、触れていられる時間がだんだん長くなっていくうちに、触れるということは許してくれるようになりました。 それなりに折り合いが付いた状態で、自閉的な構えはまだまだ崩さないけれども、触れられるのは許容してくれた。そこまで来るとまたこちらの欲が出て、今度はちょっとこっちに寄りかかってみませんかと誘うと、またそこで嫌われるというか避けられて…というやり取りを丹念に続けていく。 色々な人とかわりばんこにお付き合いしますので、月に一度ぐらいしかチャンスが回ってこないんですが、何カ月かそういう誘いを丹念に続けた末に、最終的には寄りかかって身を委ねるわけなんですが、そこは無理強いしていませんので。 石井先生が強調しておっしゃっていた「こちらがこうしてほしいと誘うが、本人が自我関与して心から納得する、そういうやり取りが大事だ」ということを念頭に置いてやってきたつもりなので、身を委ねた時点で心も委ねるような状態になっている、人に身を委ねる心地よさ、安心感っていうのをそこで味わってもらえたわけです。 すると日常の様子がそれとなく変わってきて、その人のほうから担当の職員に寄ってきたりとか、ついこの間、聞いた話では、学園から帰宅したときに様子が変わっていて、ご両親いわく「何か関わり方が変わってきているので、それをどう受け止めたらいいか、こっちも受け止めあぐねている」ということをおっしゃっていたという、そんなうれしい話もあって。 石井 長年の固定的な関係が変わってきて、逆に親御さんのほうがそれを戸惑っていると。 阿部 だから、そういう戸惑いっていうのは施設でも担当の職員や周りの職員も感じているところだと思うんですが、そういう戸惑いがある意味では安定を乱されたっていうところにもつながるわけです。いい意味での戸惑いだと思うんですが。 ところが、こちらも(誘い方の)上手下手がありますから、誘い足りないぐらいならまだいいんですけど、時には「もう少し誘ってもいいんじゃないか」と欲張ってこちらの誘い方が度を超すと、誘われたほうもちょっと不安定になり「どうしようかな?」というような状態になりますので、そういうことでご迷惑をおかけしたことも多々あったと思います。 沼倉 最初のほうで先生がおっしゃった交流を続けていかないと、特に自閉症の方なんかは自己防衛の生活形態とか、周りの人も安定を乱すのを避ける接触形態とか、そういうのが固まっていっちゃうと、だんだん自分を発揮できなくなっていく状況になりやすいっていうことにもつながってくるんですよね。 阿部 そうですね。もっと幼い子どもだったら自閉のままにとどまるか関わりの世界に行くかという単純な葛藤ですけど、もう40歳、50歳になってくると「こう生きていくんだ」っていうような信念のようなものも強固になりますから、そこで改めて誘われても、「ええ?そんな誘いに今更乗っていいのか? 今更乗ったらどうなってしまうんだ?」という戸惑いが大きいと思います。「今あなたはそう誘っているけど、一時の誘いじゃないのか? 本気でこれからもずっとその関わりを続けてくれるのか?」とか、そういう不信感もあるかもしれないし、乗り越えるまでの葛藤は容易なものじゃないと思います。だから数カ月かかったのも無理ない話で、その間、私は月1回誘うだけですけど、日常でも同じように担当の職員がしっかり関わってくれたというのが大きな力だったと思います。 石井 そういう葛藤とか心の動きっていうのは目に見えないので、それに身近に触れている経験があるとか、そういう考え方をちゃんと学んでいるとか、そういうこと(下地)があると割と理解できていくと思うんですけども、なかなかそれがちょっと離れたところにいる人に伝えていくっていうのがすごく難しいと思っていて。 何かその辺で伝えていく術みたいなものがないものかというのを考えるんですけども、先生のお考えはいかがでしょうか。分かってもらうっていうところで。 阿部 こちら(袖ケ浦)に在職して2年目の方を対象に1年間研修をやらせていただいていて、最後の第5回目の研修がこの間終わったばかりなんですが、その中の3人の方が毎週お伺いしている個別の時間に来ていた方でした。 最終回にはその3人の方に、私との個別の時間にお付き合いしてどうでしたかというようなことを含めて話していただいたんですが、やっぱり個別セッションの場ですと、例えば自閉症の人でもちゃんと我々と変わらない人間性があるんだということが実感しやすいわけですよね。 これは石井哲夫先生もおっしゃっている話ですけれども、こちらからあることを語り掛けるとそれに対して目に見える反応を返してくるのをつぶさに見ることができますから。 また、こういう関わりをするとこんなふうに変わっていくんだという思いがけない体験をする。やっぱりこういう個別の場というのは支援者の認識が変わっていくのに大きな役割を果たすのかなって思います。
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鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-06-
「石井哲夫の残したもの」について 石井 やっぱり、なかなかそういう実践に触れないと難しいですよね。 阿部 難しいんじゃないでしょうか。少なくともそれを言葉に表してというか、言葉や文字だけでもそういうことを伝える努力をしていったらいいと思うのですが。 そういう意味では、石井先生がなさってきたことっていうのは、一見何もないようなところからダイヤモンドのような宝石を掘り起こしてきたのだと思います。 石井先生って言ったら、「ああ、あの受容論か」で済まされるきらいがあります。もちろん石井先生ご自身も受容は大切だと繰り返しおっしゃっているわけですが、先生が掘り起こしたダイヤモンドは1個じゃないわけで、受容論しかり、自我の二重構造説もそうですし、それから葛藤を乗り越えるための課題を仲立ちにした交流論、その葛藤を乗り越えるにあたって支援者、利用者、お互いの自我関与が大事だということの強調もそうだし、葛藤を乗り越えるのに情緒を明らかにしてそれをなだめることが大事だとか、いろんな宝石を掘り起こしているんですよね。 まだ数え上げれば他にも出てくると思うんですが、そうやって掘り起こしたダイヤモンドを一つの理論として、宝石細工として組み立てたのが受容的交流療法の理論だと思います。一生をかけてそれを成し遂げて私たちに残してくださったと思うんです。 でも、実践によって掘り起こしたものを理論として組み立てることで精いっぱいだった、と言ったらおかしいですけど、今度はそれを誰もが身に付けて実践に移せるようにするという作業が残された私たちにとっての課題なんじゃないかと思っていて。 沼倉 そうですね。そういう意味では、本当に阿部先生の作っていただいたテキストは道しるべとさせていただくような内容で、ダイヤモンドを磨いて見せていただいている感じがします。その先、本当にわれわれがどこまで成し遂げられるかはちょっと不安なところはたくさんあるんですけども。 石井 なかなか再現性といいますか、決まった形にするともう、はたから違っていくようなところもあるように感じているので、そうすると技術的な体系化がしにくいというか、ノウハウのように「こうやればいい」みたいなものっていうのがなかなか表せないっていうところに今直面している気がしまして。そのあたりで非常に悩ましいといいますか、どうしていったらいいんだろうってとても途方にくれているようなところがあるんですけども。 阿部 一つには、理論化されているとはいいながら、石井先生の実践には名人芸のようなところが多分にあって、先生ご自身も芸術家の仕事に例えているようなところがありますよね。 石井 そうですね。 阿部 ですから、芸術家の仕事っていうのは血のにじむような苦労をして仕上がっているんだけども、でも再現性ってことで言えばとても難しい話になるわけで、でもそれでいいじゃないかっていうふうに居直っていらっしゃっていて、その通りだと思うんですが。 ただ一方では石井先生の名人芸っていうのはあるけれども、もっと身近な、まだこの仕事を始めて数年っていう若い人なりの、その人なりの「名人芸」が考えられると思うので、だからその人らしさを発揮した名人芸を支援していけたらと思うんです。 それには昔の職人芸のように親方の背中を見ながら、ときには盗みながら自分の技を、というのはちょっと今どき酷な話で、だからといって「こうすればいいんですよ、こうすればできますよ」っていうふうに単純化してしまうと受容的交流療法がとても薄っぺらなものになってしまいます。そうじゃなくて、「こんなふうにしていくとあなたなりの名人芸っていうのが出来ていきますよ」というような、そういうマニュアルは可能なんじゃないかなっていう気がしています。 また一つには実践記録。どうしても実践記録っていうと客観性を貴ぶ、悪く言えば読むほうも無味乾燥なものになりがちなので、「自閉症の人とこう関わってこういう喜びを共に感じた」っていうような、読むことで感動を呼ぶような、わくわくして読めるような、そんな実践記録を打ち出していく。生の実践を見られない立場にある人たちにはそれも一つの道筋かなと思います。ですから、そういう発信を嬉泉からぜひ、していっていただきたいなと思います。 石井 それこそ職人芸に例えられましたけど、その職人の道に入っていくためのガイドみたいなものと、それからその職人の道を究めていく過程でのその人の体験というか、ある種の主観に基づいた記録で感情移入をしてもらうっていうような方向性でしょうか。 先生のお話ですごく勇気づけられた思いがしまして、やはり嬉泉の価値っていうのはそれこそ石井が掘り起こしたダイヤモンドをちゃんと磨いていくことなんだっていう、先生のお言葉がやっぱり一つの指針となるなというふうに、すごく今感じています。 では、沼倉さん最後に。 沼倉 改めて、受容的交流とか心のケアっていうのを考える機会を頂いて、本当に利用者さんとの交流の原点というのを外さずに、そこがぶれないように継承していくっていうのが一番の道なのかなというふうに思い返しました。ありがとうございます。 石井 今日は長い時間にわたってお話しいただきましてありがとうございました。