嬉泉

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嬉泉の想

子育てアイウエオ

社会福祉法人嬉泉が発行していた機関誌「子宝通信」に2011年6月から2014年8月にかけて連載されていた、石井哲夫による愛情あふれるエッセイです。
お楽しみください。

ア 愛情を考える

『子ども』ってうるさいし、分からず屋だし、自分勝手なのになぜかわいいのか。

 

大人から見れば『まだ幼いから仕方ない』と許す気持ちが働くのだ。

 

良い親の姿を見ると、これはものすごい。自分ですることはキチンとしているし、その上、忙しく気が立っているのに、子どもには仕方がないと受け入れている。本当にすばらしい人間の良さだと思ってしまう。『自分もこういう時があったのか』と不思議に思ってしまう。

 

でも、泣いている子どもを見ると、傍にいる大人に『何で泣かせてしまうのか』そんなに大人の言い分を譲らずにいることが本当に『子どもが育つうえで良いこと』と思っているのか、等と、今度は親を責めてしまう。

 

事情も分からないのに親を責めるなどは分別のないこと。子どもは、どんな親でもその傍で育つものだ。虐待やネグレクトさえなければ、親権を尊重しなければならない。

 

少しぐらい泣いたって、子どもは、それが社会の掟なんだと親に従わせることが今の常識だ。親は、子どもにとって神様のようで少しばかり法律や社会の常識を意識すれば、我が子をどのようにもすることが出来るのだ。

 

何も人並みに道具がそろわず、台所の流しを湯船にしても、トイレを道具入れに兼用しても、人に見せなければ、「うちは貧乏だから」と言うことで済むし、でも、又あまり目立たないように意地悪をしても、どんなに汚くなったことでも自分でさせて『しつけは必要』と澄ましてしまう人もいると聞いた。これは親とはいえないが、『愛情があるから』という一言で許されてしまう。

 

親って、本当に子どもに対して愛情を持っているのだろうか。私の子ども達はいずれも40を超えている。この間、私が子どもが可愛くてたまらないと思った期間はせいぜい中学生までであった。その後の彼、彼女の生活についてはほぼ無干渉であったと思う。

 

それが未だに幼い時の感覚を呼び戻すことがあるので驚いてしまう。夢中で可愛がって、『盲目の父性愛』と自称してはばからなかったことが懐かしい。その頃の子どもは誠に可愛かった。子どもは無条件で可愛かった。しかし家内はそうはいかなかったようである。それでも彼女は、子どもをがみがみ叱るようなこともなく誠に平和であった。

 

子どもへの愛情は家庭の平和をもたらすと言うことで、可愛がられた子どもは甘やかされたことになるとは近視眼的発想で、家庭の平和こそ良い子育ての必要条件で、それは子どもをめぐって愛情が大きく作用するからである。

『子宝通信』創刊号(2011年6月1日発行)掲載

『子ども』ってうるさいし、分からず屋だし、自分勝手なのになぜかわいいのか。大人から見れば『まだ幼いから仕方ない』と許す気持ちが働くのだ。良い親の姿を見ると、これはものすごい。自分ですることはキチンとしているし、その上、忙しく気が立っているのに、子どもには仕方がないと受け入れている。本当にすばらしい人間の良さだと思ってしまう。『自分もこういう時があったのか』と不思議に思ってしまう。

イ 生きる力を考える

わたしは、子どもを見て、その心の中を考えることが癖になってしまった。だから泣いている子を見ても『どんな言い分があるのかな』とか『どれだけ頑張るのかな』とか『気が変わるときはどんな時かな』などと考えてしまう。そして嫌なことが沢山あっても、『強く生き抜いて欲しい。』と思うようになってきた。

 

私の見るテレビの画面に、発展途上国で、働く子どもの映像が出てくる。大人と違って、小さな身体を精一杯使って水をくんだり、薪拾いをしたりしている子ども達を見ると、可哀想になってしまうが、気を変えて見直すと、この子ども達の『生きる力のたくましさ』に打たれるのである。

 

家で、くつろいでいる孫達を見慣れていると、孫たちの生きる力の育ちが心配になってくる。以前、文部科学省から『生きる力を育てる』というスローガンが出された時、まことにいい言葉だと共感したが、そのためにどうしたらよいかをしっかり聞き損なったようである。

 

『心理学』では『コーピング理論』というものがあり、『人間は困難なときにそれを乗り越える働きをする特性を持っている』という。困難さに直面すると生きる力がわき起こってくるというのである。そういう点から考えると、孫達は、テレビを見るだけ見て、宿題を何とか片付けたり、ガミガミ叱る親に耐えることも、『生きる力』を育むいい機会なのかと思ってしまう。

 

でも基本は、やはり、親が子どもの生きる力を見守り、辛いときにしっかり支えていくことが大事なのであろう。健康な心から『生きる力』がわいてくるからである。

『子宝通信』第2号(2011年7月29日発行)掲載

わたしは、子どもを見て、その心の中を考えることが癖になってしまった。だから泣いている子を見ても『どんな言い分があるのかな』とか『どれだけ頑張るのかな』とか『気が変わるときはどんな時かな』などと考えてしまう。そして嫌なことが沢山あっても、『強く生き抜いて欲しい。』と思うようになってきた。

ウ 打ち込み子育て

年をとってきたと自覚している私は、なぜかこの頃、過去において頑張ってきた時のかけ声や、軍歌のような勇ましい歌を歌って頑張っていることがあるのです。この事は、生きる力を強めることになっているのではないかと思っています。

 

顧みると激しい生き方をしてきたものだと思っています。いつも気力を込めて突進していくことを求められていたのではないかと思うのです。それが剣道であったりバスケットであったり、時には軍事教練であったりしても、否応なしに従ってきました。

 

70歳を記念して小学校の学年会があった時に、皆が『いつも親からも先生からも追い回され気を張っていたから、こんなにみんなで遊ぶことが楽しかったんだよ』と言い、親も教師も『打ち込み』をしてくれたのだと頷いた事がありました。

 

今回言いたいことは、私たちに真剣勝負の『打ち込み』を大人が一致して教えていたということなのです。そして、これが友情を育てるだけでなく、その後の人生をどのくらい支えてくれたか計り知れないと言いたいのです。

 

私の子育て論は『受容』を主としていますが、同時に出来る限りの『打ち込み』の機会を持つことの重要性を主張しています。

 

自閉症児に試みた『打ち込み』は、一度手がけた課題への挑戦を励ましてしっかり出来るまで付き添って、相手の気持ちに共感しながらも一緒に『頑張ろう』とし、向かい合ってボールを何回も投げては拾うと言うことをするので、一見『なんだこれは。普通のだめな強制教育と同じではないか?』と思われるでしょうが、ここまで進む過程においての信頼関係の形成を抜きにして考えてはならないということを強調しています。

 

さて、世のご両親方には、子どもに厳しく『打ち込み』が出来るような信頼関係を作っているという自信のある方がどのくらいいるのでしょうか。

『子宝通信』第3号(2011年9月28日発行)掲載

年をとってきたと自覚している私は、なぜかこの頃、過去において頑張ってきた時のかけ声や、軍歌のような勇ましい歌を歌って頑張っていることがあるのです。この事は、生きる力を強めることになっているのではないかと思っています。顧みると激しい生き方をしてきたものだと思っています。

エ 演技も必要な子育て

子育てを常に真剣な人間関係だと思っている人が多いと思いますが、親がゆとりを持って、子どもに見える心の表現を演じることが多いと思います。『ママは本当に嬉しいよ』『パパは心配で夜も眠れないんだよ』などと、子どもの前で自分の心を表す演技ができていることが必要なことです。

 

子どもが外で何か失敗してきたときなど、逆に明るく励ます両親の反応も、実は演技によるものなのです。また、子どもが弱いものいじめや、危険なことをしたときには『もうこういうことをする子は、家に置けませんから外に出なさい』と言って外に追い出すまねをするなどという昔からの演技も、子どもの理解力がつくことを見届けての上で、家の外に連れ出すような仕草を行うことがよく行われていました。

 

このときの親は、子どもの反応を見ながらも、真剣に演じていたのです。親として我が子を人間として間違った道を歩まないように、精一杯厳しい親という役割を演じていたのでしょう。

 

今は限度を心得るようになり、あまりひどいことをしなくなりましたが、かえって本当に虐待、子殺しが多く出てきているということには、考えさせられてしまいます。それには親が子育てに心のゆとりや自信を無くしてしまったという理由が述べられていますが、心のゆとりとは演技出来る心の豊かさという人間性で、これが少なくなってきたと思うのです。

 

人間の心を分からせる演技力は、親にとって必要だと思うのです。このごろのように人間関係が薄れてきている時代の中で、家庭の親子関係にかかわる時間も余裕も少なくなってきたようです。しかしそれでも努めてクリスマスやお正月や家族の誕生会などと、色々と改まった顔で話し合うことも演技出来る良い機会なのです。こういうことはいいことです。家族の中でも色々な人間性が生まれてくるからです。少ない人間関係の中でより豊かな人間関係を演出していくことは、子育てにおいて重要と思うのです。

『子宝通信』第4号(2011年10月31日発行)掲載

子育てを常に真剣な人間関係だと思っている人が多いと思いますが、親がゆとりを持って、子どもに見える心の表現を演じることが多いと思います。『ママは本当に嬉しいよ』『パパは心配で夜も眠れないんだよ』などと、子どもの前で自分の心を表す演技ができていることが必要なことです。

オ 教えること

子育てに“教えること”は極めて大切なことです。しかし難しいことはその教え方です。多くは、『何度同じことを言わせるんだ。お前は本当にだめな奴だ』となるので注意しなければなりません。これは、子どもの自尊心を傷つけることになるからです。

 

大人が『自分は親から厳しいしつけを受けたので良くなった』と言いますが、叱られ続けて良くなった例はありません。親からもらう一番大切なことは信頼と愛情です。教えるということは、新しいことを子どもの言動にとり入れられる状況を作ることです。

 

言葉がわかるようになれば言葉で教えることができますが、基本は子どもに状況をわからせることと興味や関心を持たせることです。一部の子どもには艱難辛苦を与えることで成功することもあるでしょうが、大部分の子どもに対しては『教えを急いではいけません』。本人の発達状況をよく見て、少し頑張ればできるようにすることが良い教育です。

 

もちろん、新しい話題や課題を提供することは文化的な刺激を与えるために、おもちゃやゲーム、絵本などの教材を整えておくことが望まれます。といって、子どもに整理できないような数多くの教材は必要ありません。幼児期までは、子どもが興味のあることを取り入れて遊び方の工夫を求めること、また、子どもが自分で状況を見て考えるように求めることが良い教育なのです。

 

早くから英語やピアノなどを教えることは、それによって育つものもありますが、英才教育の成否は、周囲からの評価と、自分の才能に自信を持つことができるようになることが必要です。才能を育てるにはそれを見抜く眼力が必要なのです。

 

一番困ることは圧力をかけて皆を一斉に教育することです。早くから箸の持ち方を強要する人がいますが、箸の持ち方は3歳前後が適当と発達心理学によって確かめられています。子どもの発達していく状況をよく見ている人こそよく教えられるのです。気まぐれな教育は子どもにとって悪影響をもたらすことがよくわかってきていますので十分注意してください。

『子宝通信』第5号(2011年11月30日発行)掲載

子育てに“教えること”は極めて大切なことです。しかし難しいことはその教え方です。多くは、『何度同じことを言わせるんだ。お前は本当にだめな奴だ』となるので注意しなければなりません。これは、子どもの自尊心を傷つけることになるからです。大人が『自分は親から厳しいしつけを受けたので良くなった』と言いますが、叱られ続けて良くなった例はありません。

カ 神様のこと

神様のことを子育てにおいて話すことは難しいと考える人が多いのですがなぜでしょう。この地球上の多くの国、或いは民族の間でいろいろな神様が信じられているのですが、我が国では、信仰の自由で、神様などに無関心な状況が多くみられています。神様は人のこころに入り込む高い価値を知らせ、人間の生活において善しとされる方向に行動を進めさせると考えられているのです。

 

神様を信仰することが必要と考える人たちは、人間の欲望が望ましくない方向へ向かいうときに、神様がいれば、心の中の望ましくない行動を取り締まり、善い方向に向けてくれるからなのです。

 

もちろん、それは人々の心の中で自分自身が起こすことです。誰も神様を実際に見たことがないと思います。しかし実際に神様が起こした奇跡的な出来事は数多くあります。偶然といってしまえばそれまでですが、私たちの今の知識では説明がつかないことも起きています。それらを神様と結びつける人もいるわけです。もちろんこのことについても意見が分かれています。科学系の人たちは、必ず説明が付くはずだと主張します。

 

ここで問題にしたいことは、子どもに神様を教えることがよいかどうかと言うことですが、私はためらいなく、「神様を信じるということを教える方がよい」とする立場にいます。私の幼いころに裏の家が教会でした。幼児期にはそこに日曜ごとに通いました。しかしやがて、その教会が無くなりました。すると母から、お寺の日曜学校に行くことをすすめられ、それから中学校卒業頃までお寺に通いました。私が今でも一番難しい援助を求める自閉症の人たちや幼い子どものことを案じるという事も、神様、仏様の教えからかと思っています。

 

ただ、神様や仏様だけを頼ることでは依存心が強まり、自分で努力しなくなるという意見もあります。それに対して、私は「困った時の神頼み」を教えることでよいと思います。自分は神様が守ってくれると信じ、勇気を奮い立たせることができるからです。

『子宝通信』第6号(2012年1月30日発行)掲載

神様のことを子育てにおいて話すことは難しいと考える人が多いのですがなぜでしょう。この地球上の多くの国、或いは民族の間でいろいろな神様が信じられているのですが、我が国では、信仰の自由で、神様などに無関心な状況が多くみられています。

キ 気にいる子育て

「気」という言葉は、多く使われている言葉です。元気な赤ちゃんから、気配りのよいお年寄りに至るまで、気は人間の一生で大切な心の働きと考えていいでしょう。元気、根気、気分、気心、気立て、気性、気持ち、本気、呑気、意気、勇気、気分、などという言葉をみると、気とは、人間の心の持ち方、とくにその人の心の働きの状態を捉える革新的な意味があるのではないかと思われます。

 

このごろ、乳幼児期からの保育内容に関心を持つ人が増えてきています。保育において重要なことは、第一に、身体の健康保育ですが、心の健康保育ということも大切なことなのです。心の健康というものは、人間関係で、自分を安定させ、より充実していくような気働きが多く出来ることですから、どのようにしてそれが出来ていくかを知り、保育することだと思うのです。

 

子どもには、気心が知れた人と一緒にいることの喜びや、気持ちよく暮らせる居場所を見つけたり、そうなるように周りの人が環境条件を整えていくようにしていくことが大事です。

また、子どもが友達と付き合う状態をよく見て、気の毒な人たちを見捨てず、支えることや、気になる人の気持ちを知って、思いやる気遣いをすることを教えて下さい。時には、気が滅入るようなことがあっても、気を取り直して、気を張って元気よく取り掛かること、気分に左右されず、根気よく取り組むことなどを、子どもに望んでいるでしょうか。

 

そして、あなた方が自分のお子さんについて、気がかりなことが多くとも、あなたの気に入ることのみをさせることがよいわけではなく、気を滅入らせないようにして、気短かに取り組まず、時には呑気になって、気強く、気さくに関わるようにしてください。

 

『子宝通信』第7号(2012年1月30日発行)掲載

「気」という言葉は、多く使われている言葉です。元気な赤ちゃんから、気配りのよいお年寄りに至るまで、気は人間の一生で大切な心の働きと考えていいでしょう。元気、根気、気分、気心、気立て、気性、気持ち、本気、呑気、意気、勇気、気分、などという言葉をみると、気とは、人間の心の持ち方、とくにその人の心の働きの状態を捉える革新的な意味があるのではないかと思われます。

ク 訓練と子育て

今回は訓練という言葉を選びました。訓練の“訓”は『さとし教える』という意味、“錬”は『絹糸を練り上げる』ということです。言葉としてはわかりますが、この言葉にはあまり良い感じがしません。

何が気になるかといえば、相手の感覚や感情や意思といった相手にとっての価値について、軽く感じているという感じがしてしまうからです。しかし、私の気持ちのどこかに、訓練の大事さを認めるものがあります。そこで、改めて訓練という言葉を辞書で引いてみました。

 

『①実際にあることを行って習熟させること。②一定の目標に到達させるための実践的教育活動。薫育、徳育とも動議に用いる。③動物にある学習を行わせるための組織的手続き。褒章または罰を用いるのが普通』(広辞苑)。

私の訓練の悪しきイメージは、③ということになります。本来人間には、②の実践的活動としての薫育・徳育の意味で使わなければならないと思うのです。

 

実は、私の持論の『受容的交流理論』は、親が子どもに関わるときの状況からの発想であり、私が子どもに関わるときは、この②の意味で行っているのです。私が訓練などをしているはずはないと思う人もいると思いますが、実は、私は②の訓練は大事だと思っています。
訓練に属する言葉で、薫育・徳育がありますが、共に、徳を持って人を導き育てることであり、薫陶という言葉でも置き換えることができます。文字通りの意味で使いたいものです。

 

大人は子どもを上手に訓練しなければならないということは当然でしょう。私などは、自閉症の子どもに向かって、必死になって、懇願するように課題をしてくれるよう求めることもあります。こういうときには、『分かってくれて、育ってくれ』と気持ちを込めて求めるのです。そこから少しずつ私に向いてくれる子どももいると、これはたまらなくうれしくなります。

『子宝通信』第8号(2012年3月31日発行)掲載

今回は訓練という言葉を選びました。訓練の“訓”は『さとし教える』という意味、“錬”は『絹糸を練り上げる』ということです。言葉としてはわかりますが、この言葉にはあまり良い感じがしません。

ケ 傾注(傾聴)という子育て

 保育士は傾聴を大事にしています。それは幼い子どもの思いや、何に困って騒いでいるのかを相手の立場に立ってできるだけ正確に理解するためです。

喧嘩をしている子ども、友達の大事にしているものをとってしまう子なども、『いけないことをしたから叱らなければ』と思うのですが、注意はしても、その後、必ず本人から言い分を聞くようにしています。それは、どうして、喧嘩をしたり、叱られるようなことをしたのか、保育士は本人の気持ちを分かろうとしているのです。親にはとてもそのゆとりがありませんね。しかしこれも努力をして実行すれば親子の関係が大きく変わってきます。

 

親は、我が子が生まれてくる前から、心の中で、我が子に向かって関わっているのです。そこには、自分の気持ちを言い続ける事もあるでしょうが、おなかの中の我が子の状態を想像していると思います。

このように子どもに傾注して、子どもが生まれた後でも子どもをわかろうとし続けて傾注出来ればいいのです。我が子の表情やちょっとしたしぐさにも何か意味があるのではないかと注意するのです。そして子どもが声を出すときや、泣くことには、おなかがすいているのではないか、寒くないか、痛むことがないか、などと気を向けることが自然に出来ていくのです。

 

こういう子どもへの気持ちに注意することが『傾注』なのです。このことは極めて大事な子育ての核心とも言うべきことなのです。子どもが言葉を言い始めるようになると、この『傾注』が『傾聴』になっていくのです。

 

傾注(傾聴)されることによって、子どもは、その自我の働きを活発にしていくことが出来るようになるのです。そして、この親への信頼する気持ちが出来ていくことは言うまでもないことです。私はこのことを専門として仕事をしてきたのです。

『子宝通信』第9号(2012年6月1日発行)掲載

保育士は傾聴を大事にしています。それは幼い子どもの思いや、何に困って騒いでいるのかを相手の立場に立ってできるだけ正確に理解するためです。

コ 言葉に関わる子育て

子育てにおいての言葉の意義ということを考えてみましょう。子どもが生まれた時には、既にそばに親がいる状態です。しかし、初めは言葉を使うことができません。それでも親子は、感覚を働かせて、気持ちを通わせることが出来ています。

 

この感覚は情緒に広がってきます。情緒はいろいろな体や心の状態の現れですが、その人にとって近づきたいとか遠ざかりたいという方向に分ける意味の働きとなります。例えば泣くという激しい気持ちは、空腹とか暑さとか、あるいは異様な視界などという不安な恐怖や嫌悪という、そこから逃れたいものなのです。それが自分で出来ないので、周囲の人の対応が始まるのです。

親子関係は、このような子どもの心のいろいろな訴えの働きの表現と、それへの親としての対応として、また逆に親からの働きかけに対応する子供の反応もあり、お互いの心の働き合いの調節が基本にあるのです。

 

そして言葉の意味がわかるようになってくると、急速にこの感覚、情緒の関係性が変わってくるのです。言葉はコミュニケーションの道具と言いますが、これは言葉という概念のみをさすものではないのです。言葉は感覚から生じてくる生体の働き合いをもたらすものなのです。その意味では気持ちのこもった言葉かけが大事な言葉の役割なのです。

 

忘れてはならないことは、情緒を基本とした言葉の使い方なのです。優しい声掛けは、子どもの気持ちを鎮めていきます。歯切れの良い厳しい言葉かけは緊張をもたらし、能動性のきっかけを促します。言葉の意味を文章として考えると同時に子どもとの気持ちのやり取りの道具として考えることも忘れないようにしましょう。

 

もちろん子どもの成長とともに思考活動としての言葉が増えてきて、子どもと大人の自我対応関係も進んでいくことは言うまでもありません。

 

『子宝通信』第10号(2012年7月30日発行)掲載

子育てにおいての言葉の意義ということを考えてみましょう。子どもが生まれた時には、既にそばに親がいる状態です。しかし、初めは言葉を使うことができません。それでも親子は、感覚を働かせて、気持ちを通わせることが出来ています。

サ 差別をなくす子育て

 人間の命は大事なものです。どういうわけかこの地球に生物がいて、その中で最高知能の人間が人工的な環境を作ってしまったのです。長くても100年程度の個人の人生、平穏に生きていくためには社会が必要で、これは個人の人生をつなげていく人間集団なのです。それ故に、人が優れた知能を使って皆が満足し充実するような社会を作るために努力することが基本的に大事なことと思うのです。安心して生きることの大事さや、多くの人と暮らしていくことの良さを生きていく限り満喫できるようにしたいのです。この根底を覆すと、この社会は虚無的な気風になってしまうのです。

 

心理学者マズローは、自己実現が人生の価値といいました。問題はその自己実現の『自己』なのです。自己は社会と折り合いをつけなければ、苦しみ続けて、自己に対する阻害的要素を強めてしまい『うつ』が多発していきます。
重要なことは社会的な折り合いで、それは、他人と協働・共生できることです。自分だけが人から受け入れられることを願うのではなく、他の人との関係性を大切にすることです。良い関係性を育てるためにきちんと分かっておかなければならないこと、それは、他人を差別しないということです。

 

身体の大きさや形の違い、顔の違いそれだけで良い感じ、嫌な感じを持つのが人間なのです。人々の持ち味の違い、個性の違いを気にする根源は、自分の心の中で、良し悪しを決めるメジャーができているからです。このメジャーも育ち方でより弾力的なものに変わっていきます。嫌と思った身体の形や顔つきも馴染んでいけば変わるのです。

 

心も同じです。他の人とは違ったことをしている子どもでも、理由を調べてみると『一つのことに熱中しやすい』という特性からと分かり『微笑ましさ』を感じることもあります。このように人への見方が変わることがあるので、差別を固定させないように気を付ける子育てを工夫してみてください。そこには地球人類の未来の幸せがかかっているのです。

 

『子宝通信』第11号(2012年8月30日発行)掲載

人間の命は大事なものです。どういうわけかこの地球に生物がいて、その中で最高知能の人間が人工的な環境を作ってしまったのです。長くても100年程度の個人の人生、平穏に生きていくためには社会が必要で、これは個人の人生をつなげていく人間集団なのです。

シ 信頼感を育てる

今まで好意を持っていた人でも、その人のしている事で気分が悪くなることがあると、とたんに相手がどのようなことをしても、好感を取り戻せなくなることがあります。自分の子どもには、そうは出来ないと考えていましたが、この節は、我が子との関係の持てない親が増えてきました。

 

今の社会では子育てが難しいと言うことは、個人中心的で、他人を信頼してしっかり結びつくという傾向が薄くなったからです。ここで重要視したいことは、人間関係を安定する心の働きとして出来ている「信頼」という心です。そして、この信頼感は、こちらが信頼することから相手の信頼を招くという作用があります。子どもを育てていく上で、この信頼関係が早くから出来ていないと困ることになります。つまり他人と自分の関係がいつまでも育たないという関係の障害になるのです。

 

親は、子どもと信頼関係を早くから育てて欲しいと思います。よくこのごろ、関係の出来にくい子どもと関係を育てるために、共感と信頼感という心の働きが大切と言います。もちろん、子育ての場合、親が多くそばにいることで共感と信頼感が出来ると思いますが、どんなに会う時間が少なく、離れる事情があっても、我が子を信頼できるような関係になっていて欲しいのです。

 

それは言葉の上だけでなく、我が子がどんなことをしても、良いところを認めて、それを信じ続けるという愛情が基盤にあって、その上で、出来る限りの親としての養育責任を果たすように、努力を重ねていくことが重要なのです。そしてこの信頼関係は親子関係という特別な関係だけではなく、この親の心を受けて、保育所のような社会的保育に広がっていくことが良い社会的子育てとなり、それが良い社会を作っていく基になっていくと信じているのです。

『子宝通信』第12号(2012年9月30日発行)掲載

今まで好意を持っていた人でも、その人のしている事で気分が悪くなることがあると、とたんに相手がどのようなことをしても、好感を取り戻せなくなることがあります。自分の子どもには、そうは出来ないと考えていましたが、この節は、我が子との関係の持てない親が増えてきました。

ス 素直について考える

 「この子は素直でいい子だよ」という言葉は聞きなれた常識的な言葉です。素直な子どもの行動は、「人の言うことに逆らわない」とか、「静かにしていなさい」と言われれば、動かなくなるとか、興味を持って遊んでいても、「もういい加減にして勉強しなさい」などと言われればその通りになることです。相手の思い通りになってくれるということは良いことと考えられているのです。

しかしこの子どもの側に立ってその心理状態を考えてみると、自分という働きを他人の意思で動かしてしまうことで、極端な言い方をすれば『自分がない子』ということになるのです。
もちろんそういう風に考えなくてもいい場合もあります。年を取ってくると大方の人間の気持ちが読めるようになりますので、「まあ、私に頼みたいという気持ちだからやってあげるよ」などと、言葉の裏の、良い気持ちが読めるので、自分に言い聞かせて、多少無理してでもやるようになります。でも、幼い子どもの場合は、どうも自分に言い聞かせるとか、裏の気持ちを読み取るなどということはあまりしませんので、自分の気持ちを働かさなくとも機械的に人に従う方が楽だということを覚えてしまうことになるのです。

 

ですから、初めに書いたような素直な子どもがすべて良いとは言えず、時には、自分側の事情もあって、『大人の言うことを聞かない子』になることがあるのが普通でしょう。親は、「しょうがないね」「おまえはすぐ遊びに夢中になってやめられないしょうがない子だよ」という『愛想尽かし』をすることになるのです。この親の怒りは大切ですね。いう事を聞かない子に叱ったことで、子どもが、「なんですぐ叱るのよ」という反発心を招くことになるからです。多くの子どもたちはこうして親と闘いながら自我を育てていけるのです。

 

でも障害のある子は、そこにしか、自分の貴重な安らぐ遊びが無いことを知らない親から一喝されて、それを奪われれば、大騒ぎになっていき、心が傷ついていくのです。素直さをただ求める人は、人間の心の中で働いている『自己』という心の存在を知らないということに、気をかけない人なのです。

『子宝通信』第13号(2012年12月7日発行)掲載

「この子は素直でいい子だよ」という言葉は聞きなれた常識的な言葉です。素直な子どもの行動は、「人の言うことに逆らわない」とか、「静かにしていなさい」と言われれば、動かなくなるとか、興味を持って遊んでいても、「もういい加減にして勉強しなさい」などと言われればその通りになることです。

セ 生活力を育てる

 よく、保育や教育関係者が生活習慣の自立とか、生活技術訓練という言葉を使い、スプーンや箸の使い方を繰り返し練習させることや、パンツなどの衣服の着替え方や、用便の後始末などという生活行動についての細かく指示してさせる生活指導マニュアルを作ることが良いと思う人がいます。

生活行動を一生懸命教えようとするお母さんや、保育士の気持ちも分かりますが、子どもが自分でする気になれるようにすることが大事と言うことを強調したいのです。そのための子育てには、まず基本として『安全、安心、そして安定(あんみつ)』という子どもの気持ちの落ち着きがあってこそ、自分でやれるという気持ちになるのです。子どもの個別的な事情を考えた指導というか対応がよいと思うのです。

 

『僕、今、何もしたくないんだよ』という気持ちでいることからパンツの履き替えを拒むAちゃん、『すぐ、ヨーグルトかき回したくなるの』と言うB子さんなどと、色々な自己主張があっても、大人はお構いなしに、何事も手早く大人のさせたいことをやらせようとするのです。子どもの主体性とか、気持ちを汲んでさせることが出来ないのです。

 

もちろん時には、大人の強い誘いや教えが必要になることは言うまでもありません。しかし生活力を育てる中心は、周囲に良い手本があることと、この子どもの状態をよくするこちらの振る舞いなのです。

 

例えば、保育士が、『Aちゃんは良い子、元気な子、何でも僕やってみるって言えるかな』などと唱えながら、(パンツをすぐに足を入れられるようにおいて)『魔法のパンツ、「えいやー」ってこの中に立って引っ張り上げてみてごらん』そして、『あら、はけたね』というような感じにすればいいのです。またB子ちゃんには、『美味しく食べるBちゃんのお料理はぐるぐる混ぜだ。だけど、ぐるぐるする前にそーっとしたに乗せてぺろぺろとなめると、違うお料理の味がするかもね』などという感じの誘いもあるのです。

 

どうしても、自分の思うようにさせたいと焦る気性や癖を反省しない保育士や、お母さんは、『子育ては自分育て』と考えて、自分の対応を柔軟に幅広くするようにいろいろと工夫して、少しずつ子どもを社会に通用する生活の仕方へ押していくことですな。

『子宝通信』第14号(2013年1月発行)掲載

よく、保育や教育関係者が生活習慣の自立とか、生活技術訓練という言葉を使い、スプーンや箸の使い方を繰り返し練習させることや、パンツなどの衣服の着替え方や、用便の後始末などという生活行動についての細かく指示してさせる生活指導マニュアルを作ることが良いと思う人がいます。

ソ 即興性を育てる

 よく『人間力』とか『行動力』とか『柔軟性』などと、人間として状況における適切な振る舞いは、瞬間、瞬間に動いていく人々の中で、自分が言いたいこと・したいことを内容、方法とも、豊かに、適切なものにしていく働きが求められているわけです。それも、即座に返していかなければならないとすると、『よく考えて行うべし』という教えに当てはまらない事態だと思うのです。

 

子どもに関わるときに、誰も教えてくれなかったような即興的な良い技がでてくることがあります。
私の経験ですが、かつて、赤ちゃんをあやしているときに、突然、赤ちゃんが身体をのけ反らせて、嫌だという合図を送ってくれたことがありました。その時に考えもしないで、瞬間的に赤ちゃんの背中に手を当てたのです。すると赤ちゃんは急にスーと良い顔をしてくれました。『なぜ自分はこの赤ちゃんの気持ちに即座に応じられたのだろうか』と、改めて自分の気づかない即座の対応が出来るということを知らされました。

 

一つは、かなり長く研究している『サイコドラマ』から学んだ『無心になって、手あたり次第、ふいに思いがけない新しい話をしあったり、新しい場を踏ませて、いろいろな役割を演じさせてみたり』などという即興性が身についたのかなと思いました。
サイコドラマをはじめたときに、指導をしてくださった外林先生から、「今、即座に、考えないで動くこと」という指示で、いろいろな場面に入ることを要求されたのです。これは大変な思いでいましたが、次第にあまり苦もなく新しい場面に入れるようになってきたのです。

 

即興性を大事にするということは、子どもを「型のごとく躾ける」という考えの逆方向で、子どもを鍛えるということなのです。子どもに即興的な場面を多く経験させてみてくださいね。

『子宝通信』第15号(2013年2月発行)掲載

よく『人間力』とか『行動力』とか『柔軟性』などと、人間として状況における適切な振る舞いは、瞬間、瞬間に動いていく人々の中で、自分が言いたいこと・したいことを内容、方法とも、豊かに、適切なものにしていく働きが求められているわけです。

タ 確かめかた

 大人は、子どもによく事実を確かめることが多いと思います。『ママのタオルを黙って使っているの』ぐらいはよくあることでしょうが、『これを壊したでしょう』となると「叱る」の方に気持ちが向いていますね。

 

本来は、言葉としての重要な用途として『共通の認識を持つ』ために、確かめは貴重な道具だと思うのです。しかし、多くの確かめは、大人が子どものすることを大人の枠に当てはめたいという気持ちから行うことになるので、大人の求める枠に入ることが嫌いになっている場合が多い子どもは『いつも私のせいにする』とか、『自分はよく思われていないのだ』と言う気持ちになってくるわけです。

 

度々、疑われるような確かめられ方をされると人間関係が悪くなるので注意しなければなりません。

 

勿論『僕じゃないよ』とか『どうして私を悪く言うの』と反撃して強くなる子どももいて、そのことから自分を主張しようという気持ちを子どもに抱かせるような効果もあると思います。しかし、人間育ちを支えている育ての親に対しては『自分を信頼していて欲しいという根本にある気持ち』を大事に考えてほしいのです。ですから子どものしていることをせっかちに細かく注意するより、長い時間をかけて事実を確かめることにすれば、おのずから我が子の真実が分かってくることが多いのです。

 

時々は本人に聞くより、周囲の人の見方も参考にして確かめることも良いと思います。ママとしてパパの見方や保育士の見方あるいは、祖父母の見方なども参考にして、『いつも事実を客観的に知るという気持ち』でいることは良いと思います。時には、なまじ確かめないでもよいという気持ちでいることも大切です。子どもの言動を客観的によく知っておくと共に『私の好きなこの子が勝手にするわけはない。』と、こういう子どもへの信頼が愛着となっていくのです。この気持ちを受けて、子どもは親に悪く思われたくないという気持ちがわいてくるのです。

『子宝通信』第16号(2013年3月発行)掲載

大人は、子どもによく事実を確かめることが多いと思います。『ママのタオルを黙って使っているの』ぐらいはよくあることでしょうが、『これを壊したでしょう』となると「叱る」の方に気持ちが向いていますね。

チ 血のつながる子育て

 産みの親より育ての親ということわざがあります。確かにこの頃子育てが分からない親よりもベテランの保育士が上手に子育てをしてくれるようになりました。でもこれは必ずしも良いことではありません。子どもは基本として自分を産んでくれた親に特別な気持ちを持っているからです。

 

それでは早く親と別れた子どもはよく育たないかというとこれも間違いです。愛着は特別なものではなく、自分という個性の中に人間性を育てる基盤となるものですから、よい子育ての出来る親や周りの人たちに出会うことは、よい愛着育てとなるのです。

 

ただ、生みの親を慕うという気持ちから求める愛着は、おさなごが触れる親の肌の感触なのです。優しくいつくしんでくれる親という存在が、子どもにとって心地よい気持ちをもたらせてくれます。そこには愛情や信頼というようなよい感覚があるわけです。これを血のつながった子育てというのであれば、本当に血がつながらなくともこういう感触を大事にすることが、“血のつながる子育て”なのです。

 

私がこう断言するのは、いとおしい自閉症の子どもからいつもこういうお返しをもらっているからなのです。丹念に関わることで、血が通ってきている自閉症の子どもが私の傍にいるからなのです。この人は、もう40代になっていますが、私を求めて話したがります。お母さんも優しい方で良い親子の愛着関係がありました。しかし、子どものときに精神病院に閉じ込められて、荒れに荒れたときがあったのです。それでも私の入所施設に入ってからの私たちとの交流で、すっかり人が変わり穏やかで、立派な才能を発揮できるようになり、人に対しても優しくなりました。こういう事実から、私の確信が出来てきたのです。是非とも、本当の意味での“血のつながる子育て”を多くの人に体験してほしいと思います。

『子宝通信』第17号(2012年6月1日発行)掲載

産みの親より育ての親ということわざがあります。確かにこの頃子育てが分からない親よりもベテランの保育士が上手に子育てをしてくれるようになりました。でもこれは必ずしも良いことではありません。

ツ 作るという心のはたらき

 ツクルという行為には、人間と他の動物と決定的に違う内容があります。共通することは、生活しやすくするために有効なものを作るということです。それは、自らの力で環境を変えていくということです。

 

ただ人間が物を作る場合は、自ら力を統制していくという精神の働きを必要としますから、作ることによって、頭の働きの柔軟性や意思の持続性や、手先の巧緻性などが育つことになるわけです。子どもが砂場で山を作っては怖し、川を作って水を流すような、自らの力で立ち向かうことから、さらに粘土細工、切り紙、折り紙、積み木や木工のような素材に堅さが増えてくることによって、作る場合の力の入れ方や手加減を工夫していくというように活動も変化して、自分自身に必要な機能を育てていくことになるわけです。

 

何でも作るという活動には、その過程においてその人の本領(その人の備えているすぐれた才能や特質)が現れてくるのです。普段落ち着きがないと言われている子どもも、自分の好きな創作活動には没頭することがあります。このような時には、その没頭して作るという働きこそ、その子の本領であるものと考えることが良いと思うのです。

 

どういうわけか周囲の大人は落ち着かないという悪い方にのみ注意を向けがちです。一般に作るという子どもの主体的な心の働きを大事に考えて、「よく出来たか」という出来具合ではなくその子の工夫とか、良い方向への訂正などという点を認めてほめることが大事だと思うのです。我々の経験では、のびのびと大きな視野に向かうこと(大きな絵を描くなど)、部品の適切な組み合わせ(パズルの組立など)、失敗にめげず根気よく取り組むことなどがよいと思います。

 

しかしこれが集団の中では、人間関係の調整とか、人との比較などという新たな精神的な働きが求められてくるわけです。問題は本人のやる気をどう育てるかということです。

『子宝通信』第18号(2013年7月1日発行)掲載

ツクルという行為には、人間と他の動物と決定的に違う内容があります。共通することは、生活しやすくするために有効なものを作るということです。それは、自らの力で環境を変えていくということです。

テ 「手加減」が大事

 子育てで『テ』から始まることは良いことが沢山あります。手伝い、手際、手加減などとどんどん出てきますが、この『手』という字の意味はなかなか味わい深いものだと思っています。そこで、今回は手加減を考えることにしました。

 

手加減とは、相手に対する自分の行動について、相手の受け止め方を考えて、適切な効果を求めて自己調整を行うということで、一種の対人演技とも言えましょう。子どもが自分はダメだと決めつけてしまわないように、親の思いやりがそこで『手加減』として登場するのです。つまりその時々で、子どもにとって厳しくもあり優しくもある親は、手加減をして自分に関わってくれ、自分の力を引き出してくれるのです。

 

多くの親は、出来ない子どもや失敗した子ども、何回も同じミスをする子どもに対して、容赦なく叱りつけて、世の中の掟を押し込もうという人が多いと思います。子どもの側から見ると、ミスをしてしまう自分がいつも親の理屈で叱られ、自信を無くしていくのです。またそうでなければ、『これは叱られる』という予感を持っているところへ、案の定叱られるわけですから、自分が悪いということより口やかましくりつける親に対して対抗する気持ちを持つようになってきます。よく親は子どもに向かって『いい加減にしてよ』ということが多いのですが、子どもの側からは、『いい加減に手加減してよ』ということになるわけです。

 

よく子どもと相撲を取って、時々負けてあげるお父さん、買い物についていって、忘れたふりして子どもに何を買うか聞くお母さん、そうやって子どもの持っている力を出していけるような機会を作ってくれているのです。子どもとよくつきあって下さい。そこに子どもの発達の状況を知って、手加減をたくさんしてあげてください。

『子宝通信』第19号(2013年8月1日発行)掲載

子育てで『テ』から始まることは良いことが沢山あります。手伝い、手際、手加減などとどんどん出てきますが、この『手』という字の意味はなかなか味わい深いものだと思っています。そこで、今回は手加減を考えることにしました。

ト 問い返す

 子どもと話をするときに、大人が子どもに問い返すことが起きます。例えば、4歳になったA子さんから「家のマルがね、クスンって言ったのよ。」と話しかけられたとします。これが忙しいママだと『猫だってくしゃみするんだよ。』と、にべもなく言い捨てて、それ以上取り合わないことが多いと思います。しかし子育てで大事なこととしては、子どもの話し言葉に込められた心の働きが、大人との会話でいろいろと鍛えられる貴重な機会となっているということを知って欲しいと思うのです。

 

つまり、子どもと多くの機会に穏やかな会話をしていくことは、心の良い育ちを期待することが出来るので、A子さんには、『クスンて何かな』『風邪をひいたので咳をしたのかな』『くしゃみかな』など問い返すことは、子どもとの良い雰囲気を作り出すことにつながるのです。時には、家の人でなければ「あなたのお家のマルちゃんって誰かな」『猫だよ』「どうしてマルって名前を付けたのかな」『それは丸い顔をしているからよ』「わー可愛いね」などと良い雰囲気になってくるのです。この問い返しのコツは、ゆったりと気持ちよく向かい合うということ、子どもの語調に合わせて対応すること、そして気持ちを込めて感情表現をすることが良いと思っています。

 

たとえ大人がよく知っていることであっても、知らないふりをして、その子どもの状態をよく読み取って問い返すことであってほしいと思います。案外子どもの方では、少し知恵が働くようになってくると『おじさんそんなことも知らないの。駄目だなー』と言われてしまうこともあると思いますが、こういう時こそ「おじさんでも分からないことが沢山あるんだよ」と無邪気に言ってください。問い返しが大事だと思うことは、これは、子どもの目線の上からものを言わない工夫の一つだからです。

 

子どもは、平生何も穏やかに話せない大人が自分に向かって話そうとするときには、想像以上に緊張しているのです。特に日ごろより、大人からの皮肉とか咎めの言葉にはかなり敏感に感じ、心を痛めていることを知って欲しいと思います。

『子宝通信』第20号(2013年9月3日発行)掲載

子どもと話をするときに、大人が子どもに問い返すことが起きます。例えば、4歳になったA子さんから「家のマルがね、クスンって言ったのよ。」と話しかけられたとします。これが忙しいママだと『猫だってくしゃみするんだよ。』と、にべもなく言い捨てて、それ以上取り合わないことが多いと思います。

ナ 馴染むということ

 日本語には面白い言葉があると思います。子育てについての理論にはあまり登場してきませんが、日常の自分の暮らしを改めて見直してみますと、朝起きてから夜眠るまでに、馴染んだ暮らし方が出来ていることが分かると思います。

 

歯の磨き方から食事の仕方そして家の中での自分の居場所、ものの置き方から洋服の着方や靴のはき方まで決められてきた順序や方法があると思います。これはどうして出来たのでしょうか、いくら周りでうるさく言っても、訓練しても出来るというものではありません。

 

これらは、周囲の人たちと一緒に生活していく中で体得していくものであって、本人が他人と生活していく中で、試行錯誤を繰り返しながら自分で馴染んだ暮らし方を作ってきたのです。このことが分からない人は、もっぱらこれは、親のしつけの所為にしてしまうのです。

 

親としては、手ほどきや見本としてみせることがあってもいちいち付き添って教えていけるものではないのです。おかしな行動が目につけば注意したり叱ったりするのでしょうが、家庭内で家族の暮らしの中で、子どもが自分に都合の良い生活の仕方、そしてお互いに波風を立てない工夫や、また大きくなるにつれて良いと言われた対人マナーを身につけていくのです。問題は基本的な生活行動を家族全体で作っていくことです。子どももその一員として、包み込まれて馴染んで身につけていくことになるのです。

 

外で緊張した大人が家庭に帰って気が休まるのは、馴染んだことが多く気を遣うことが少ないからです。でも子どもは、そうなっていません。家の中で安心できる気持ちを育ててください。地域社会でも保育所や学校でも、より多くの子どもが馴染んで良い生活の仕方を身につけるようにしていくことこそ、社会の大人の責任だと思うのですがどうでしょうか。

『子宝通信』第21号(2013年11月1日発行)掲載

日本語には面白い言葉があると思います。子育てについての理論にはあまり登場してきませんが、日常の自分の暮らしを改めて見直してみますと、朝起きてから夜眠るまでに、馴染んだ暮らし方が出来ていることが分かると思います。

ニ 似ているね

 親子が似ているのは、血のつながりからと思われています。これは、遺伝子の受け継ぎのもたらした素質的な働きと考えられますが、同時に日常の生活で一緒に暮らしている親子の交流も関係していることなのです。そういう原因はともかくとしても、一般に人間関係において『似ているね』という言葉は、お互いに親しみの感じを強める働きをもっています。

 

『似ている』ということは、相手の言動に自分の特性を見い出すことなのです。これを積極的に使えれば、人間同士の良い関係が生まれると思います。例えば、きょうだいはお互いにいがみあっても、時折、第三者から『似ているね』と言われることにより、言葉では、否定することがあっても、心中では「しょうがない。きょうだいだから」という気持ちになるものです。確かに、上の子は母親似で、下の子は父親似であると言われても、そこには、きょうだいならではの『似ている』という事実があるのです。

 

このことは、夫婦間にも通用します。初めは、異なった特性が強く表れることが多いのですが、何時しか、お互いに影響し合って、似たところが多くなるようです。そこで、『私たちは似ているね』ということでいがみ合いも無くなると思うのです。それは何故かというと、夫婦はお互いに初めのうちは、我慢して相手の特性を許したり、或いは、逆に微笑ましく思っていたのです。ところが、次第に無遠慮になり、自分本位の主張が多くなっていくからなのです。しかし気づかないうちに、お互いに認め合って同じような言動をとるようになったわけです。ですから、その『似ている』ところをはっきりと意識する為に、『似ているね』が異なるところにこだわっている気持ちや考えの転換に役立つことになるのです。

 

子育てでも十分に通用することですから、意識して『みんな良く似ているね』と言って欲しいのです。特にお勧めしたいことは親が我が子に対して『お前は私と似ているね』の一言です。これを意識して我が子を見たり、行ったりして欲しいのです。『私たちは似ているね』と世界中の人々が言い合って欲しいですね。

『子宝通信』第22号(2013年12月20日発行)掲載

親子が似ているのは、血のつながりからと思われています。これは、遺伝子の受け継ぎのもたらした素質的な働きと考えられますが、同時に日常の生活で一緒に暮らしている親子の交流も関係していることなのです。そういう原因はともかくとしても、一般に人間関係において『似ているね』という言葉は、お互いに親しみの感じを強める働きをもっています。

ヌ ぬくもりの意義

「ぬくもり」という言葉は、漢字で書くと温もりと書きます。この「温」の字は、さんずい(水分が多いという意味)に、日、皿とか古くは、日の代わりに囚を書いたといいます。「皿の中に伏せられている」という「人々のふれあいの中に発し止まっている」という「温もり」こそ、私たちが一生涯で沢山経験したいことではないでしょうか。

 

温もりを知らない子どもが大きくなってどういう大人になっていくのか心配です。私は『男はつらいよ』の大ファンですが、この映画の監督をされた山田洋二さんに大変興味を持っていまして、ある時お会いすることがありました。その時に『男はつらいよ』の映画のネタはなんですかという質問をしたときに監督は『それは落語です』と一言で言われました。

 

ああそうか、八っつぁんや熊さん、そして横町のご隠居等落語の登場人物は、あの寅さんや妹さくら、夫のひろし、おいちゃん、おばちゃん、裏の印刷屋のたこ社長なのだと思いながらそういう人物像の描き方のみではなく、その関係の醸し出す雰囲気の温かい感じがたまらなく好きで、かつ良い気持ちを与えてくれるのです。寅さんはすぐムキになって裏の印刷屋のたこ社長につかみかかるが、妹のさくらやその亭主のひろしの止めで治まるのです。

おいちゃんやおばちゃんは、大人の寅さんをおさなごに対するように言いきかせているのです。寅さんの恋愛は、はかなくもすがすがしいし、このすべてが温もりを与えてくれるのです。

 

これが実は今回の子育てに重要な『ぬくもり』という感じだと言いたいのです。人は男女それぞれが愛し合い、子どもを産んで育てていく、子どもは、母親の胎内の『ぬくもり』から離されても親の肌のぬくもりによって心が満たされて自力の育ちを始めることが出来るのです。よく子ども達を見ていると皆が人からのぬくもりを求めていることが分かってきます。特に子ども達には、沢山のぬくもりを経験させたいのです。ぬくもりは人がいる場所に出来る安らぎのすみかを与えてくれるからなのです。

『子宝通信』第23号(2014年4月20日発行)掲載

「ぬくもり」という言葉は、漢字で書くと温もりと書きます。この「温」の字は、さんずい(水分が多いという意味)に、日、皿とか古くは、日の代わりに囚を書いたといいます。「皿の中に伏せられている」という「人々のふれあいの中に発し止まっている」という「温もり」こそ、私たちが一生涯で沢山経験したいことではないでしょうか。

ネ 根っこを考える(最終回)

“根っこ”という言葉を聞くと、全国社会福祉協議会が発行している「保育の友」で1986年から2007年まで21年の長きにわたる連載を行った、村田保太郎さんの「保育の根っこにこだわろう」を思い出します。この連載は多くの保育者に感銘を与えるものでした。この中で選ばれて単行本としたものを、近頃拝見し、素晴らしいことだなと思いました。

そこで、村田さんに電話をかけて「あなたの本を読んだけれどあなたの言っている保育の根っこというものは、いったいなんですか?」という疑問を呈したら、彼はさわやかに「子どもが子どもなりに力を十分出し切るための援助のことで、若い保育士にとっては、自分を振り返ることに繋がるのではないでしょうか。」と答えてくれました。

そこで、私は「保育だけでなく、子育ての根っことはなんだろう?」と考えました。

まず、思い当たることは、人間が生まれては死んでいくという人類の歴史の中で、住みよく、お互いの考えが分かりあえて、したいことができるような社会文化系統、人間同士がより多くの行為を持ちあえるような社会を目指して子育てを行っていくことであり、そこには人間同士が愛し合い、尊敬しあうような人間関係を、幼少期から多く経験していくことが、大切なことではないかと思っています。

つまり、子育ての根っことは、まず親が我が子を一人の人間として、自分の分身として慈しみ、愛して尊重して、子どもが生き続ける気持ちを強めていくことを維持することではないかと思っています。

硬い言葉で表現しましたが、子どもは、生まれてから多くの人々からの愛着体験を強化していくことができたなら、どんな状況におかれても二次障害を発生するようなことがないと、臨床的な仕事をして確信を持っています。

『子宝通信』最終号(2014年8月発行)掲載

“根っこ”という言葉を聞くと、全国社会福祉協議会が発行している「保育の友」で1986年から2007年まで21年の長きにわたる連載を行った、村田保太郎さんの「保育の根っこにこだわろう」を思い出します。